前九年合戦が終了してから六年後の治暦四年(一〇六八)、藤原道長の外孫であり、道長の子頼通を関白に迎え在位二四年に及んだ後冷泉天皇が死去して、新たに摂関家を外戚としない
後三条天皇(後冷泉天皇の弟)が即位する。ときに三五歳。彼は摂関家と外戚関係をもたないというだけではなく、父は一条天皇の皇子後朱雀天皇、母は三条天皇の皇女禎子内親王という、久しく分裂していた円融・一条系と冷泉・三条系の二つの皇統を受け継ぐ血縁関係にあった(写真70)。こうした後三条の即位は、時代の大きな転換を告げる出来事であった。そして「皇統の統一」という強烈な王者意識をもち、頼通長期政権下の「時代閉塞」状態に飽きた貴族層の支持を受けながら、次々と「新制」を発布して強力な政治改革を断行していった。「延久の荘園整理令」や記録所の設置に象徴されるような、国政全般にわたって巨大な改革を遂行したことはよく知られているが、一方で、北の「辺境」=奥羽両国に対しても、北方世界の諸問題の最終的な決着を図るべく、その北端に残されていた「蝦夷の地」の征服=「日本国」統治下への編入という積極政策を打ち出し、北方世界を大きく変容させていったことも見逃せない。
写真70『国史略』治暦4年7月条
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後三条天皇の政治改革は、第一に王権の拠点たる首都京都の整備、第二にそれを支えるための全国的な土地政策、第三に積極的な対外政策、という三つの柱に具体化されている。まさに平安王朝の創始者
桓武天皇の再来を彷彿とさせるものであった。
即位直後には一〇年前の康平元年(一〇五八)に焼失したままとなっていた大内裏再建に着手し、続いて京都の道路整備・都市計画・市場法・警察体制の整備等々、その発した新制には「首都整備法」というべき政策がふんだんに盛り込まれていることが注目されている。かの有名な「延久の荘園整理令」も、直接的にはこの内裏復興の財源確保を目的とした造内裏役という税の全国賦課のために発布されたものであって、こうした
後三条天皇の強力なリーダーシップのもと、時代は
摂関政治から荘園公領制社会へと、大きな転換を遂げていくことになる。