一方、逃げる大将軍国衡のために、出羽道の根無藤(ねなしふじ)あたり(蔵王町)に城郭を構えて立て籠もった者たちもいたが、根無藤と四方坂(しほうざか)との中間あたりを舞台に、三沢安藤四郎らによる進退七度に及ぶ激戦の末に、撃ち破られた。『吾妻鏡』は「この合戦に無為なるは、ひとえに三沢安藤四郎の兵略にあり」と褒めそやしている(史料五三二)。
この三沢安藤四郎も先の安藤次と同じく、津軽安藤氏と同族であろう。ただこの「三沢」は、青森県の三沢ではなく、陸奥国刈田(かった)郡三沢郷である。というのは「根無藤」も「四方坂」もいずれも刈田郡内の地名で、地勢に詳しい地元勢力が鎌倉軍を先導し、勝利に導いたものと理解できるからである。このことからすると、道案内人安藤次も同じく刈田郡出身である可能性が高い。刈田郡は阿津賀志山の足元ともいうべき場所である。安藤次はこの地の間道に十分通じていたのであろう。