このように、着々と奥州方面の戦後処理が進んでいくが、しかしなお頼朝やその御家人の東北支配にしたがおうとしない
北奥の武士は多く、この文治五年(一一八九)が不作だったこともあって、十二月には八郎潟の東に本拠を置く泰衡の郎従大河次郎兼任(かねとう)が、七千余騎を率いて鎌倉に反旗をひるがえすと、
平泉方の武士たちのなかには、それにしたがう者も多かった。兼任軍の勢力は強く、男鹿で御家人由利維平(ゆりこれひら)や橘公業(きんなり)を破り、翌文治六年(一一九〇)正月には、さらに北に転じて、背後を脅かしていた
津軽の宇佐美平次実政や大見平次家秀らをも撃(う)ち破ってしまった(史料五三八)。鎌倉をもうかがうまでに強大化していったのである。なお『吾妻鏡』が、「被討取」ないし「殺戮」されたとする橘公業や宇佐美実政は、のちの史料に姿をあらわすので、殺されたとするのは誤報であったらしい。
正月八日、鎌倉では東海道大将軍に千葉介常胤、東山道大将軍に比企能員を任命し、結城朝光以下の奥州に所領をもつ御家人らに奥州への発向を命じた。十三日には、さらに足利義兼をも追討使として派遣するという念の入れようである(図38)。
図38 大河兼任の乱関係図
翌二月六日には、多賀国府にあった「新留守所・本留守」の二人が、兼任与同の嫌疑をかけられ、その身柄が葛西清重に預けられた(史料五三九)。
平泉政権下で多賀国府在庁の最高責任者として民事・行政を司ってきたこの二人にとっては、頼朝の新しい支配方式にはなじめないものがあったのであろう。この二人には過料として甲(よろい)二〇〇領が課せられた。