源頼朝は、鎌倉幕府の地方支配の要(かなめ)となる制度として守護・地頭の制を整えた。奥羽両国は平泉政権の崩壊によって、広大な新天地として創出された場所であり、頼朝にとって新制度を施行するには、これほど都合のよい場所は他にはなく、もっとも典型的な、また先進的な形でこの新しい制度が実施に移された。
守護は国ごとに置かれたが、その職権は大犯三箇条(だいぼんさんかじょう)(謀叛人・殺害人の検断、京都大番役の催促)に代表される国内の軍事検察権にとどまっていたから、実際の庶民生活に深くかかわってくるのは、荘園・公領ごとに置かれた、その下地を管理する荘官の系譜を引く地頭の方である。
地頭の地位ないしそれに伴う得分のことを地頭職(じとうしき)と呼ぶが、その権益はかなり広汎で、領域内の公田の掌握、奥州の特産品である布や馬・金などの年貢の収納、警察権、庶民の相論の裁判権、寺社造営役の催促などを任務とした。