当時の幕府・六波羅探題の法律書『沙汰未練書』には「武家ノ沙汰」の一つとして「東夷成敗の事、関東において其沙汰あり。東夷トハ蝦子(えぞ)事也」とあるが(史料六一五)、夷島への流刑行為はこの幕府独自の権限である「東夷成敗権」に含まれるものであった。
つまり夷島流刑とは、いったん京都の朝廷内の組織である検非違使庁によって逮捕された「京中強盗・海賊張本」を鎌倉幕府に渡し、鎌倉殿の手で夷島に流すという国家的流刑なのである。
早くも建久二年(一一九一)には、最初の京都官人(強盗)一〇人の夷島流刑が「奥州夷」安藤氏によって実施されている(史料五四三)。夷島はもとより、その手前の外浜も、すでに述べたように中世の日本国の東の境界と意識されており、流刑の対象地であった。