蝦夷管領のもう一つの重要な職務として、蝦夷世界との交易がある。これは平泉政権以来の仕法を継承している可能性もある。
具体的に見ると、このころの奥羽地方には、馬・砂金といった、特殊な所当官物が割り当てられていた。
大田文(おおたぶみ)(一国ごとに国内の田地の面積や領有関係を書き上げたもの)記載の田数を基準に各国特産物を官物として強制するのが中世国家年貢体系の中軸である。すでに曽我氏の所領経営のところでその一端を述べた。奥羽の北端にあっても、そこがたとえ「外浜」といった名称に代表されるような、浜・牧・湊・浦・島という特殊な形であったとしても、中世国家の原則に従って公田数記載の大田文をもって所当年貢が処理されるかぎり、そこには水田の存在を前提とすることになってしまい、外浜などの「浜」といえどもそれらの地はもはや特殊な蝦夷地ではなく、水田を前提とした課税がなされてしまう。
そこで異民族たる蝦夷の住む夷島に注目し、奥羽の延長に夷島があり、したがってその夷島産物は奥羽所出品であるという論法を編み出して、馬・砂金ばかりか夷島産出品をも奥州に課することになっていった。たとえば摂関家領出羽国大曽禰(おおそね)荘では、奥州では採れない水豹(あざらし)皮が年貢品目になっている。
幕府の儀式の進物として、馬や砂金が指定されることからも明らかなように、馬・砂金は、武士による中世国家にとって不可欠の、軍事力的要素を構成するものであり、それらを含めてこうした中世国家編成上の必要性から、奥羽(ないし夷島)からの特殊な官物搾取を維持するために、蝦夷異民族観が利用されるということになる。
とくに蝦夷地に近い北奥羽においては、官物として強制された特殊な産物を確保するために、分業編成を強化しなければならなくなる。先にみた正中二年(一三二五)の「安藤宗季譲状」(史料六二一)に記された糠部の地名はほとんどが「浦」であり、また「きぬ女類族交名(きょうみょう)」中に、その一族として「もくし(牧士)きとう四郎」なる人物がみえることから明らかなように、山の民・海の民である安藤氏は、海運(海の道)や馬産と密接な関係を持っている。
以上のように、安藤氏が就いた蝦夷管領とは、幕府による蝦夷支配と犯罪人の夷島流刑を現地で執行する代官職であり、また中世国家によって奥州に課せられた夷島産品を確保するために北方との交易の管理統制にも当たった要職であると見なせよう。環日本海世界を舞台に、スケールの大きい交易活動に従事していた安藤氏の在り方は、こうした蝦夷管領たる職にふさわしい。