幕府方最後の拠点は持寄(もちよせ)城である。後醍醐方の主将は、北畠親房の嫡男顕家であったが、顕家も、この持寄城を中心とした津軽の動向にはかなり気を配っていたようである。顕家のもとには、安藤氏が外浜を押領しようとしているとの噂が入っており、安藤氏が朝廷方に協力するかどうかも心配の種であった。安藤氏に対しては、配下の南部師行(もろゆき)に工作を命じている(史料六四一)。
またこの間、顕家は各地の有力武士を続々と津軽へ派遣した。いち早く建武元年四月には、摂津の多田貞綱(さだつな)が(史料六三六・六三七)、また八月には陸奥国岩城郡の伊賀盛光(もりみつ)が(史料六五三・六五四)、翌九月には陸奥国宮城郡の大河戸三郎左衛門が津軽へと出発している(史料六四九)。
またやはり八月には顕家自身の津軽下向が準備された(史料六四二)。実際にはこの津軽下向は実現しなかったものの、この噂を聞きつけた後醍醐方の士気は、いやがうえにも高まったに違いない。八月から九月にかけての激戦を経てついに持寄城も落ち、十一月には幕府方の巨将名越時如(なごえときゆき)・安達高景(たかかげ)も降伏した。