日の本の将軍と地域の自立性

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一方、「日の本」を蝦夷の中の中央と理解し、「中世国家」とは別個の存在であり、その称号も「国制上」の位置づけとは切り離して考えるべきものであるともいう。つまり、日の本将軍は、自称であって、もうひとつの日本の自立性を示すものであるのだという。
 これに対して、たとえば、「奥州日の本の将軍、岩城の判官正氏殿」という表現がみられる(史料一一三三)日本海を舞台とする説経『山椒大夫』は、日本海での交易活動の展開の中で、そこを横行する人々を荷担者として生まれたもので、日の本将軍の呼称もその中で認められたものであるとして、安藤氏・秋田氏の系譜伝承はこのような語り物とともに生み出されたともいわれる。さらに、こうした語り物では、関東ではそれ以前に日の本将軍の伝承が展開しており、鎌倉末期には、日の本将軍の呼称は平将門伝説との関連のなかで登場するという。中世の東国においては将門は東国自立の象徴であり、源頼朝も語り物の世界ではそのように称されていた。そして、武人の誇りを示す心情を込められたものとして、平将軍(平貞盛)・余吾(よご)将軍(平維茂)というような、「○○将軍」の呼称が鎌倉末から南北朝期に形成されたという。
 また、日の本将軍が津軽の安藤氏と結びつけられるようになった初期の形を示すものは、安藤五郎を「日ノ本将軍」とする「地蔵菩薩霊験記」巻九ノ五(史料五八六)の記述であった。この安藤五郎の人物像については、建治元年(一二七五)の日蓮の書状にも見え(「種々御振舞御書」)、しかも両者の共通性は大きく、ここにみられる安藤五郎の人物像に、そのころからの日の本将軍伝承が鎌倉方面で合体・融合した結果、「地蔵菩薩霊験記」の記事が成立したという。つまり、日の本将軍という呼称のルーツは、平将門伝承にかかわる関東の語り物のなかに求められ、それが奥州にまで伝えられ、受容と変容の経過を経て安藤氏の日の本将軍の呼称となった。その背景には、室町期における地域の自立といったような事情があったのである。