枝城・端城の城跡

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支城よりも規模が小さく、なおかつ城館跡としての性格を有するものが枝城であり、端城である。枝城と端城の中間地点には「繋ぎの城」「伝えの城」「境目の城」といった用途を別にした城館が整備されていくことになる。当市域内で枝城・端城と考えられる城館跡としては、宮館跡や、小沢(こざわ)館跡、東目屋地域に所在する高野(こうや)館跡などが挙げられる。
 小沢館跡は小沢集落の東方二〇〇メートルほどの南側から延びる舌状台地末端に位置しており、主曲輪は南北一二〇メートル、東西六〇メートルの規模である。館跡の中央部には堀の上幅七メートル、深さ二メートルの空堀が東西方向に設けられ、西側直下に土淵(つちぶち)川が流れ、東側・北側は谷地を利用した水田、南側には石川・百沢を結ぶ広域農道が作られている。
 『本藩通観録(ほんぱんつうかんろく)』には「小沢館主猪股市郎左衛門のち森岡山城守」とあり、築城年代は不明とされている。一方『津軽一統志』『津軽名臣伝』『盛岡由緒書』には、津軽為信代の家老職を務め、独立統一のため戦陣の総師として、永禄十二年~文禄二年(一五六九~一五九三)の間活躍した森岡金吾(もりおかきんご)(山城守)が三〇〇〇石の俸禄で小沢の館に居住したことが記されている。
 東目屋盆地の入口には、割山から南に延びる尾根の先端を空堀で掘り切った遺構がみられ、高野館跡と伝えられている。切り通し道としての街道の押さえをする役割を持っていた可能性が考えられる館跡である。この堀切は、旧目屋街道が東目屋盆地に入る切り通しでもあったことから、中世のものかどうかの判断は難しいが、館跡としての伝承が残っていることから、なんらかの防御施設であった可能性が考えられる。