帝政ロシアの南下

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帝政ロシアは、十六世紀後半のシベリア進出を契機にしだいに東進し、十七世紀半ばにはモンゴル草原の遊牧民を介して、北アジアへの勢力拡大を進める清(しん)朝と対立した。両者の紛争は、まず、黒竜江(ヘイロンチャン)地方の領有をめぐって起こったが、一六八九年の、いわゆるネルチンスク条約で清朝優位に国境が確定した。これによってロシアは北東方面にさらに進出。十七世紀末にはカムチャッカに到達し、黒竜江沿岸以外のシベリア全土を支配下に入れた。さらに十八世紀に入ると、南下政策に伴う活動が活発化し、千島列島への進出が始まった。正徳元年(一七一一)に始まるロシアの千島進出は、一七五〇年代には千島列島中部、一七六〇年代には千島列島南部にまで及んでいる。

図149.蝦夷地関係図

 こうして、ロシアの日本探索は千島列島経由が主流となっていくが、その対日南下政策は組織的であった。イルクーツクに日本語学校を設立し、カムチャッカやその付近の島に漂着した日本人を厚遇してペテルブルクでロシア語を学ばせてその教師に任じ、日本語と日本研究を進めている。延享元年(一七四四)に漂着した南部領佐井(さい)村(現下北郡佐井村)の船乗り、三之助(佐之助ともいう)もその一人であり、三之助とロシア婦人との間に生まれたA・タタリーノフは、後に「露日レキシコン」(露日辞典)を編さんしている。このほか、代表的な漂流民に薩摩の船乗り、宗蔵・権蔵、伊勢の船乗り、大黒屋幸太夫(こうだゆう)などがいる。
 ロシアの主たる目的は、需要の増してきたラッコなどの毛皮獣の捕獲と、そのために必要な食料や日用品を補給するための交易であった。