元禄八年の凶作の状況は、次のようなものであった。同年七月三・四日の朝に大雪が降り積もっており、東風(やませ)が吹き続いて寒く、十四日の夜の霜雪で胡瓜・茄子の葉が枯れ、稲の葉の先端が赤くなってしまっていた。八月二・三日は雨が降って東風が吹き、寒さのために綿入れの着物を着るほどであった。またこの風で稲穂は半分ほど黒くなっており、人々は凶作・飢饉の到来を覚悟したようである。八月十日ころからは飢えをしのぐために山へ入り、蕨(わらび)の根を掘って食料とする状態になった。九月七日から稲刈りを始めたが、岩木川中・下流域および外ヶ浜方面の村々の田圃は不作で、稲の穂が立って実っていないものまでも、来年のためにすべて刈り取らねばならなかった(資料近世1No.八五五)。