江戸定府の藩士渋江成善(抽斎の嗣子)が、国元の弘前に家族とともに引き揚げたのは明治元年であった。弘前の町を歩けば、江戸ッ子、江戸ッ子といって人々が珍しいものでも見るように後をついてくる。「殊に、成善が当時まだ江戸でも少なかつた蝙蝠(こうもり)傘をさして出ると、見るもの堵(かき)の如くであつた。成善は蝙蝠傘と懐中時計とを持つて居た。時計は識らぬ人さへ紹介を求めて見に来るので、数日のうちにいぢり毀されてしまつた」と森鴎外の『渋江抽斎』に見えているが、これは成善の弘前での体験をそのまま述べたものであろう。
明治初期には、洋傘や時計はまだ輸入品であっただけに珍しく、「蝙蝠傘を杖につき、シャッポ・駒下駄・袂(たもと)時計」と言われたように、街頭では人の耳目を集めたものであった。したがって、洋傘をかざし、時計を提げた写真がわざわざ撮られているものが多い。
蝙蝠傘とともに、赤ケットもまた明治初期の洋化風俗では先端を行くものであった。ケットは二枚に折って中に三尺帯を通し、背中から胸に下げてマントのように羽織って着て歩いた。官員や士族の良家の人々が威張って着て歩いたもので、大正初年までは在郷の人たちが町に出てくる時の服装でもあった。ただ、二階の欄干の擬宝珠にひっかかり、首をつって死んだ者が出てから町方ではケットが廃れ、その後、古着が出回るようになったからか、在郷に流行するようになったという話がある。