授業料

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白銀・和徳・亀甲小学とも明治七年の開校当初は授業料六銭六厘(当時、米一升は五銭)であったが、七年七月二十四日に「上戸十銭 八十俵以上。中戸六銭六厘六毛 四十俵以上。下戸三銭 右以下。極貧ノ者ハ戸長ヨリ見聞ノ実証ヲ以テ不納ヲ許スモノトス、一家ニ二人ノ子弟ヲ学校ニ入ルルハ一人半分、三人以上ハ二人分ノ外納ムルニ及バザルコト」と第一回の改定がされている。上戸、中戸、下戸の判定は年収を米穀高に換算したもので、当時仮に米一俵を二円とすると年収一六〇円以上のものは上戸と見なされ、その子弟は授業料一〇銭となった。
 当時の就学の不振と学校への不満は、授業料の徴収が原因であった。文部省、地方官による厳しい就学督促や学事督促も学校への不平不満をかき立てたが、授業料は直接家計に響くだけに、父兄の不平不満をいっそう大きくした。当時の弘前地方は、今日では想像できないほど現金収入の道が閉ざされていた。その上子弟を入学させることによって、これまで家庭にあって父兄を助けていた子弟の労働力が減じるので、それが目に見えない出費として父兄に跳ね返った。その後授業料が値上げされるたびに退学者が増加するが、これは政府の教育行政に対する民衆の、無言の抗議と見なすことができる。