弘前市が発足して最初の事務報告書が明治二十三年二月七日提出された。その中で「本期間ノ経験日尚浅ク且諸事創始ニ係リタルモノノミ多クシテ」と悲鳴をあげ、半年の間に臨時雇を一〇六四人入れ、特に税務掛は八二七人と報告している。
これは、従来のその地域の山と水によって完結する地方自治体でなく、新町村は国家行政の末端機関であって、その事務の七、八割は国政委任事務であり、その処理に追いまくられている実状を示す。それに、町村吏員の多くは名誉職で、無給か薄給で上級官庁への従属度も薄く、かつ、兼職的で専門職でない。能率も劣る。新しい税務掛が旧戸長役場時代の帳簿を洗い直し、その未納額など処理しているが、三割から五割の未納金がある。例えば土手町役場では、営業税八三〇円二八銭五厘に対し五四九円二〇銭未納、実に六六%である。報告書は、この未納金に係る書類が累々(るいるい)堆積し、その処理に追われ、半年間に徴税令書を六万六五三四件発行した。特に市税の滞納率は六、七十%である。これは、市税が従来貧困で徴税対象でなかった者にも戸数平均割を課するからと、制度そのものの欠陥を当事者が指摘する始末である。そして、町村費の七、八割は国などの委任事務費であり、町村の公共行政に用いられる経費は二割強にすぎなかった。結局、公共行政は、土木、消防、衛生などの負担は集落に代替させた。弘前市の明治二十二年度予算一万二九六一円の中で土木費二〇〇円、衛生費八〇円だった。