裁縫科と女子就学

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森文部大臣が唱えた「道具責め」の教育とは、授業を虚用から実用に転換させることを目的とするもので、実際を通して学ばせることに意義を見出すものであった。森文部大臣みずからが「道具責め」の一つとして兵式体操を小学校に課したが、さらに随意科目として農業科や手工科(工作)も加えることになった。
 女子に裁縫科が設置されたのも同じ目的からであった。弘前の各小学校では農業や手工を教科に加えなかったが、裁縫科は朝陽尋常小学校が逸早く教科に加えた。設置の趣旨を同校は「女生徒の為めに実業教育の端緒を開くと共に、一方女子入学者の増加を図らんが為め」と述べているが、実施したのは明治二十一年四月からである。和徳小学校はそれより二年後れて二十三年四月から裁縫を正科としているが、各校がそろって正科にしたのは二十三年以後である。もともと女子に裁縫を教えることは、小学校令公布以前にも教科として採り上げられていたが、副次的なもので「当分之ヲ欠クヲ得」として取り扱われていた。正科として裁縫を実施したのは、裁縫をもって女子の「道具責め」の教育を目指し、併せて女子就学を増加させようとした小学校令の実施からである。
 裁縫を教科目に加えた結果、女子の就学は次第に増加をみた。当時女子にとって、裁縫は欠くべからざる技芸であり、それを幼少から学校で教えてくれると、家庭の負担が軽くなるので、一般家庭から歓迎された。また児童が縫い上げた衣類を持ち帰ると、父母は家計の一助になると大いに喜んだ。しかし一方では、裁縫教授に使用する布や糸などの材料費に困って、退学する女子児童もあって、教科としての裁縫は女子就学に明暗を見せた。