弘前女学校と付属幼稚園

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明治三十年、私立弘前女学校(現弘前学院聖愛高校)校長M・E・ウィルソンは、弘前においては幼稚園開設の需要が強く、専任の教師を派遣してもらえれば、地元での経営その他受け入れの用意ありとして本国の伝道局に伝えた。これにこたえる形でミス・サウザートという幼児教育を専攻した若い女性が早速弘前へ派遣され、翌三十一年四月、塩分町の校長宅内にミス・サウザートを園長として付属の幼稚園が開設された。収容園児は二〇人、入園希望者は四、五十人あり、空きができるとすぐに埋まったという。希望者の多さにまもなく校長宅を引き揚げ、本町の民家を借り上げて引っ越すとともに、園児の一部は本校舎へも収容した。さらに坂本町の新校舎の完成をまって三十四年一月に再移転、二教室をもって保育に当たった。

写真114 サウザート園長と子どもたち
(明治31年ごろ)

 なお、『弘前学院百年史』によれば、この付属幼稚園をいわゆる子守学校の後身とする説もあるが、子守学校幼稚園とは違うもので、当時商家などの子守に出され、就学の機会が与えられないまま大人になる女性たちを憂いたボーカス校長(明治二十四~二十八在籍)が、赤子を背負ったままの彼女らを集めて開設した私塾的なものであり、こうした子守学校は弘前に限らず、婦人宣教師たちによって全国で開かれていたものであるという。