そのころ、町の建物は商家も住宅もほとんど柾葺(まさぶ)きの石屋根であった。それが次第に洋風建築や蔵造りなど、都会風な新しい外観に変わっていった。洋風建築の始まりは、明治七年に本町一丁目に建った佐々木元俊邸だが、その後、百石町小路の天主堂が明治十五年に建ち、また、元寺町のメソジスト教会堂が三十年に改築されて、異国情緒を漂わせた。二十三年に新築した東奥義塾の校舎は、ペンキ塗りの新装を施し、外人教師の洋館住宅も異彩を放った。三十三年に第五十九銀行本店(現青森銀行記念館)、三十五年には弘前市立病院(明治三十四年設立。現市立病院とは系統を異にし、昭和二十三年青森医専の誘致に当たり附属病院として譲渡され、その歴史を閉じた)が本町に移転し、増築を重ねていった。
蔵造りは、二十七年和徳町に建った久一呉服店が最初で、次第に商家の流行建築になった。三十三年には百石町の樽沢屋と土手町の仏師本間が、三十六年に和徳町竹清がそれぞれ蔵造りになった。次に二十六年に角み呉服店が蓬莱橋から下土手町に移転して堂々たる三階建ての洋館を建て、あたりの商店を圧したが、三十四年には代官町から角は支店が同じく下土手町の角に進出して、これも洋館造り三階建ての偉観を競った。なお、百石町の角三宮本呉服店は、蔵造りの建物に東京の河合という鋼(はがね)屋に依頼してなまこ板のトタン葺きにして、その新装が巷(ちまた)の評判をさらったものであった。
市中には、また、本町五丁目の酔月楼、橡ノ木(本町坂から辻坂までの一帯)の峰月館、桶屋町辻の新若松楼などの料亭、さらに弘前第一の高楼と言われた一番町佐々木旅館の三階楼集雲館があり、あるいは北横町、寿町(現山王町)の貸座敷など、それぞれ粋を凝らした高楼建築が建ち並んだ。三十九年には最も斬新な洋館建築の弘前市立図書館(現在追手門広場に移築)が、大手門前の外堀近く、東奥義塾に隣接して建ち、市中の景観に新しい時代色を添えることになった。