男の髪型は軍隊式の丸刈りが流行し、それも日清戦後には一厘刈りなどの極端に短い刈り方であった。三十六年ごろになるとそれもすたれて、むしろ長髪で、それも真中から左右に分けるのが流行してきた。また、こめかみあたりを斜めに青々と剃り落とすのがハイカラと言われたこともあった。四十年ごろはこの「分けじゃんぼ」が上下を風靡し、左右に分けた髪にコスミ〔メ〕チックとか、バトレーという油をごてごて塗る洋服姿の紳士気取りの輩が多くなった。
女性の方は、三十年に入って次第に洋髪に対する魅力が高まった。在来のいわゆる日本髪のように固く束ね、しかも鬢(びん)付け油をつけるという面倒も苦労も要らないというので、一種の解放感からも洋髪礼讚の声が聞こえてきた。その洋髪というのは、束髪(そくはつ)の名で呼ばれたもので、家庭の婦人にはイギリス巻き、少女にはマーガレット巻きというスタイルが流行した。
女学生は、前髪を額の上からすぐ高く上に取り上げ、髷(まげ)はわりに大きく、それに白や水色のリボンをちょうちょう結びにした。また、庇(ひさし)髪という結い方も流行した。日露戦争のころには前髪を高くした「二〇三高地」という髪型があった。明治の終わりになって七三髪が流行し、やがて次の大正時代の「耳隠し」という髪型に移っていくのである。
日本髪では、三十三年に夜会髷という新しい結い方が時代の先端をいった。「夜会髷にショール」が最も新しい女性のスタイルであった。また、中流以下の年増では、三輪くずし・銀杏(いちょう)返しなど、また、蝉(せみ)銀杏といって、銀杏返しの開きを長く、蝉の羽のように出した島田髷などが結われた。
商家の娘や女生徒には「桃割れ」が多かった。三十九年になると、十歳以下の女児の間に稚児輪に似て真中から筋立てを入れて、左右に分け、それに耳たぶの上にある小鬢を載せて、朱鷺(とき)色のリボンで結んだのが流行した。
女の髪洗いにはカべ洗粉が使われた。油は白絞油、それからトリコ柴の油もつけた。日用品や化粧品も次第に洋風の新しいものが現れてきた。二十八年に神戸の中井商会売り出しの「日本魂」という衛生歯磨きが、市内特約店の中土手町野崎唐物店、土手町玉田平二郎、元寺町東海商店で発売された。また、三十二年ごろには鹿印ねり歯磨きがあった。
四十年ごろからは、東京・伊東胡蝶園の御園(みその)白粉や、平尾賛平のメリー白粉、小林富三郎のライオン歯磨きがこの地方でも用いられた。また、スミレという汗とり紙が一帖四〇枚綴じで三銭五厘でお目見えした。胡蝶園の御園白粉というのは、ねり製・水製・粉製の別があり、ほかに御園の蕾(洋風化粧クリーム)・御園とき水(高貴化粧水)・御園なでしこ(御顔ふきうち白粉)・御園香水など多種多様であった。一方、このころ、中年以上の婦人には、まだ一般にお歯黒をつける習わしがあった。