寄席・見世物

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土手町に菱田といって、庭も広くてよく芸人を呼んで催しをした家があったが、これが蓬莱亭という寄席になった。また、新鍛冶町には川留亭(後に喜楽亭)があり、和徳町にも明治三十三年から米山亭という寄席ができた。蓬莱亭には、三十一年五月に当時流行のうかれ節の三車一座、三十三年六月に鉄割長五郎の曲芸大軽業、同年七月に大神楽大曲芸の鏡味仙太郎一座、そして三十九年の小松家一座の大曲芸などの催し物がそれぞれ人気を集めた。一方、川留亭には当時流行の娘義太夫がよく来た。三十六年四月には京勝一座、三十九年十一月には竹本小六が『三勝半七』を語り、また、竹本播玉一座が来て『壺坂寺』などを聴かせたりした。
 見世物は一番町の南側の空地によくかかった。曲馬団・からくり人形・女相撲などが来たり、三十六年十月のここの見世物に、清国渡来の身の丈(たけ)一丈八尺の大蛇と、日山中で捕らえた怪猫というふれ込みのものがあった。