三十九年六月に柾木座の広告天井が落成した。東京の劇場の装飾を真似たもので、格(ごう)天井の桝目に市内の商店の広告を描き、中央にシャンデリア風の飾り電灯をつるしたが、観客は幕間にこれを仰ぎ見て倦(う)むことがなかった。そのころ柾木座に上演された歌舞伎では、四十年一月に市川三寿之丞一座の『菅原伝授手習鑑』、『安達原三段目』があり、これは大人五銭・小人三銭・下足料三銭・桟敷三五銭二厘・土間二五銭二厘であった。また、同年二月の尾上松鶴一座は『義経千本桜』を見せ、九月の中村芝鶴・実川八百蔵一座の狂言は、『桔梗旗揚』、『嫗山姥廊囃』で、木戸は下足とも一八銭・土間一枠七〇銭であった。
新派劇では、峰吉殺しで世を騒がせた花井お梅が森一座に加入して巡業し、三十九年十一月から柾木座で開演、狂言は柳川春葉作『やどり木』と『花井お梅』であった。峰吉殺しとは、東京浜町の待合の女将お梅が、大川端で箱屋の峰吉を惨殺した事件で、当時天下に喧伝されていたが、そのお梅が自ら演ずるというのでたちまち市中の話題をさらった。また、四十年ごろから竹内革新派と称する新派劇が柾木座に来た。その四十二年四月の興行に、当時流行の紅葉山人作『金色夜叉』があり、間貫一(はざまかんいち)に三神春雄、鴫沢宮(しきざわみや)に山本繁の配役であった。