大正八年十一月一日、釈宗演は遷化した。六十一歳。宗演は若狭高浜生まれ、明治四年、十二歳で親戚であった京都妙心寺の釈越渓について出家、のち鎌倉円覚寺の今北洪川の印可を受け、さらに慶応義塾に入学、卒業後三年間セイロン滞留を経て、明治二十五年、三十四歳で洪川の後を受け、円覚寺派管長となった。積極的に海外へ渡り布教伝道に努め、また、鈴木大拙以下の高弟を派米した。千崎如幻も彼の弟子だが、如幻は海外である程度活躍すると日本へ帰って大寺の住職に納まる宗派性を批判し、みずからはアメリカに骨を埋めた。宗演は在家禅を重視し、政・財界人、軍人、学者、そして多くの女性が彼のもとに参禅した。東奔西走、仏教界の大同団結を図った。佐藤禅忠は彼の衣鉢を継いだ。
大正十二年九月一日の関東大震災で、東慶寺は鐘楼を残して仏殿・書院・庫裡すべてが全壊した。禅忠はこの後の五年間、その復興に全力を傾けた。そのため、昭和二年(一九二七)十二月腎臓を病み、養生生活に入った。昭和五年、病身ながら震災復興の浄財を得るため、観音像ら三百余幅を描いて青森県や北海道を巡錫布教して歩いた。このことで禅画の名手として佐藤禅忠の名が全国に知れ渡った。しかし、昭和八年四月、帰鎌の車中で左半身不随となって東大病院に入院、一応危機を脱して退院し、翌九年鈴木大拙の英文「禅堂の修行と生活」の挿絵を画いた。しかし、腎臓病は昂進し、昭和十年京都紫野大徳寺で病床に就きながら牡丹を描いて絶筆となった。時に十月二十三日午前二時二十分死去。五十三歳。
禅忠は空華道人の画号を持つ。禅忠の禅画は、彼の誠実で温かい人柄が表れ、軽快でユーモアもあり、さらに説法あり、雅味あり、それに禅忠の禅者としての悟りの表現、無心の実践などのすばらしい言行録である。