軍隊と皇室(皇族)

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旧軍は「天皇の軍隊」だった。それゆえ軍隊の研究には、大元帥(すい)たる天皇の研究は不可欠であり、皇室と軍隊の問題は重要な研究テーマである。天皇は大元帥として軍隊を統帥する存在だったが、男性皇族は陸海軍いずれかの軍人将校として勤務することになっていた。むろん彼ら皇族将校は、普通の将校とは違い階級も早く上がるし、階級社会に厳しい軍隊生活のなかにあっても、特別に丁重に扱われるなど、常に別格的な存在だった。
 閑院宮載仁や伏見宮博泰のように、それぞれ参謀総長・軍令部長(後に軍令部総長)という地位に就任した事例もある。しかし皇族総長は責任追及の難を避けるため、実際には実務を担当せず、次長以下が責任をもつ慣例になっていた。その意味では彼らは「神輿(みこし)」的な存在だった。けれども両宮は陸海軍それぞれの最高人事権に影響力をもつなど、その存在と政治的言動は無視できなかった。とくに伏見宮は軍令部総長を辞めてからも、後任海相の最終人事権を掌握しており、宮の承諾なしに海相が決まることはなかった。
 男性皇族が軍人将校にならねばならなかったことは、天皇の直弟たちも避けられなかった。秩父宮(ちちぶのみや)と三笠宮(みかさのみや)は陸軍将校、高松宮(たかまつのみや)は海軍将校となっている。このうち秩父宮が三一連隊の大隊長に着任し、弘前市に赴任することとなった。そのため弘前市では上に下に宮を歓迎することになり、市当局はその任務に忙殺されることになった。天皇の直弟が来弘することは、弘前市民にとってたいへんな名誉となった。天皇皇族の行幸啓がもつ政治的意味と地域にもたらす影響力は、地域と軍隊との関係を考える上で非常に重要なテーマなのである。

写真16 秩父宮の連隊赴任