太平洋戦争の勃発以降、女性や学童の動員も徹底された。昭和十七年(一九四二)二月六日、国民勤労報国協力令に基づき、弘前市でも国民勤労報国隊を結成し、勤労を通じて国家に奉公する体制を確立することになった。市長は同日中に各町会長宛に通牒を発し、報国隊への入隊を呼びかけた。弘前市国民勤労報国隊は、弘前市在住者で一ヵ年に三〇日以内、業務に従事することになっていた。男性は満十四歳以上四十歳未満、女性は満十四歳以上二十五歳未満が対象となった。男性では軍関係者や官公吏、徴用者、学生、児童は除かれ、女性も既婚者は除外された。要するに高齢者を除き、徴用されない男性と未婚女性が対象だったわけである。女性の上限年齢が男性に比べ極端に低いのは、結婚適齢期を見込んだ措置だと思われる。
けれども緒戦の勝利は長く続かず、アメリカの反撃が強まり日本が劣勢になるにつれ、兵員不足から国民の根こそぎ動員が強まった。昭和十八年六月二十五日、政府は学徒戦時動員体制確立要綱を決定し、学徒は学業を休止し軍需生産に従事することになった。七月二十一日には国民徴用令を改正し、九月二十一日には国内態勢強化方策を決定して国民動員の徹底を改めて指示した。二十三日には事務補助員、外交員、受付、車掌、改札係など一七種の男性就業を禁止し、二十五歳未満の未婚女性による勤労挺身隊を結成している。十二月二十四日には徴兵の適齢を一歳下げて十九歳とした。男性は戦場へ動員し、その代わりに女性を銃後で勤労奉仕させることが、いよいよ本格的に眼前に迫ってきたわけである。
戦争の長期化に伴い慢性的な動員不足が生じたため、政府は植民地としていた朝鮮国内にも徴兵制を導入した。それを受けて県は弘前市に対し、朝鮮人の労務動員に対する講習会の開催を指示した。昭和十八年九月十五日、在市朝鮮人の壮丁錬成講習会が弘前市愛成園で開催された。その目的は日本語を習熟させ内地生活へ同化をはかるなど、要するに朝鮮人の同化政策を強要することだった。対象者は十七歳以上二十一歳未満とあったから、かなり若い年齢層である。
なお青年学校や中等学校以上に在学する人々や、陸海軍属のほかに、移入労務者で「移入労務者訓練及取扱要綱」により所定の訓練を実施されている人々は対象外とされた。「移入労務者」とは、要するに日本へ労務動員された人々のことを意味する。当時、朝鮮は日本の植民地とされていたため、朝鮮と日本の流通に関しては、輸出入といわず移出入と呼んだ。戦時動員が強化されるに伴い、軍需資源の生産現場や土木事業、なかでも過酷な鉱山労働に朝鮮人や中国人が多数動員された。彼らは日本での労務に携わるため、別個に労務訓練を強いられていたのである。