昭和初年の弘前の商業

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昭和初年の経済動向は、全国的には、大正末年の第一次世界大戦後の好況に対する反動恐慌の勃発や関東大震災後の震災手形処理問題の存在、金融恐慌に至る金融不安の現実化など、不況続きであったが、青森県内、ことに弘前市においてもそうした動向の影響は現れていた。弘前商工会の会長であった宮川忠助は、昭和二年(一九二七)に次のように記している。
行き詰まったといふことが日常茶飯事の挨拶のなかにまで屡々用ひられるといふ事はいかに社会が不景気のドン底に呻吟して居るかといふ事を如実にかたるところのものであると自分は考へている。
(『弘前商工雑誌』二-二)

 こうした認識は他の商店主にも共通のものであった。山口時計店の店主である山口常太郎は、同誌で次のように述べている。
 この不景気のどん底に置き(ママ)ましては、普通一般の商法ではとてもこの難関を切り開いて行くことは困難であるという事は敢て弊店ばかりではないと思って居ります。
 吾々商人にとりましてはこの苦境を切りひらいて行くという事は非常な苦心惨憺を要するという事は勿論覚悟の前では御座いますが、その一面には可成り男々(ママ)しい愉快も伴ふこととも思って居ります。
(同前)

 また、天尚堂の杉田敬司は次のように述べている。
昭和二年の初頭に於て今年の商略の自分の方針は昨年の経験によって薄利多売主義の実行に更に一層の努力をしたいと考へて居るので御座います。(中略)昨年度の私の薄利多売経験と申しますと昨年に於て金融逼迫の折柄単に金に代へるといふ目的のみで時計のまったくの原価販売を実行致して見たので御座います。(中略)依って私は本年のこの不景気のドン底に置き(ママ)まして、お客様に可愛がられる方法はこれを置いて外にはないと決心をしたので御座います。
(同前)

 このように全国的な不況や金融恐慌の影響は、金融逼迫や商品の売れ行き不振という形で、弘前市の商業界に影響を与えていた。
 大正十五年即ち昭和元年(一九二六)には、営業税が廃止され、営業収益税が作られた。営業税は外形課税で悪名が高く、大正期には反対運動が盛んであった。新しい営業収益税は、個人では純益が四〇〇円以上であれば課税され、それ以下であれば非課税であった。また、法人の場合には純益が四〇〇円以下でも課税された。税率は、個人は二・八%、法人は三・六%であった。
 新たな制度の導入には大きな反響があり、弘前実業連合会でも税務署長の講演があり、弘前呉服商組合においても収益税の問題が話し合われた。この税制改革は、帳簿の記帳が完全である呉服店や製造販売業主には好評であり、記帳が不完全な飲食店や雑貨店には不評であった。