りんごは、明治期から「りんごようかん」、「干しりんご」、「りんご酒」などさまざまな加工が試みられてきたが、生産が不十分であったことや、価格や味が不安定なこともあり、産業として成り立たなかった(斎藤康司編『波多江久吉りんご著作選集』青森県りんご協会、一九九六年)。
その後、昭和になるとりんごの生産量は大幅に増加し、年間総生産量が五〇〇万箱に達するほどになった。しかし、その約三割は商品として販売に耐えられない下級品であり、これを販売することは、本県りんごの信用を傷つけることになりかねなかったため、下級品は市場に出さず、遺棄せざるを得ない状態となっていた。そこで、生産者らは下級品を有効利用するためりんご加工を模索していたが、りんご専門組合である無限責任竹舘林檎販売購買信用利用組合(以後は「竹舘林檎組合」と略す)の創設者である相馬貞一が奥羽線石川駅前にりんご加工場を開設すると、加工業が本格化していくことになった(資料近・現代2No.一七六)。