竹舘林檎組合のシャンパン製造事業

95 ~ 96 / 965ページ
昭和三年(一九二八)五月にフランスのシャーマー社東洋総代理店から竹舘林檎組合に対して、青森県におけるりんご屑実の生産量と価格について問い合わせがあり、それをきっかけにシャンパン製造事業が試みられていく。
 このシャーマー社は、自然発酵飲料に関する科学的研究を目的とする技術者の協会により設立され、シャーマー法という独自の製法によって毎年七三〇万瓶ほどの飲料を生産する会社である。同組合に問い合わせてきたエドワード・ジュー・デパーテイは、日本におけるシャーマー社の代理人であった(『東奥日報』昭和五年四月六日付)。翌四年十二月になると彼は事業計画案を持参して来県し、竹舘林檎組合のほか、県農事試験場並びに県庁を訪問して、事業内容を説明するとともに、当組合との共同事業を申し出た。しかし、当時は国内産業育成優先の時代であったため、県は外資による事業に難色を示し、シャーマー社から機械と技術を買い取って、竹舘林檎組合単独の事業で行うことを求めた(同前No.一七六)。相馬貞一は、このような大事業を一組合の資本力で行うべきではないと慎重な態度をとったが、県の後押しもあり、昭和五年四月にシャーマー社と事業契約締結に踏み切ることにした。
 昭和五年十一月、その年の屑実を使用して、まず石川工場で最初の無発泡酒を製造し、これを横浜市鶴見の寿屋ビール工場の一部を借りて、フランスから運ばれてきた機械でシャンパンに精製した。六年三月に初めての製品が完成し、試飲会を開催した結果、好評を得たことでシャンパン製造事業が本格化し、七年三月、大日本シャンパン株式会社が創立されることになった。しかし、前年の大凶作に加え、昭和恐慌のあおりを受けたことで思うように出資金が集まらず、事業開始早々、資金難の状態に陥った。その上、小売価格が一本当たり一円七五銭では、日本酒一升より高く、さらに当時の国民にはシャンパンを飲む習慣がなかったため販売面でもつまずき、結局、事業は失敗した。大日本シャンパン会社の失敗は竹舘林檎組合に二六万円の損失を与え、組合は解散の危機に直面したが、相馬貞一が私財を提供することで組合はなんとか存続できたのである(波多江久吉・斎藤康司編『青森県りんご百年史』青森県りんご百年記念事業会、一九七七年)。

写真33 竹舘林檎組合の指導者とりんご加工品