昭和二十二年三月十五口、在府町の朝陽小学校校舎は、弘前市に移転した青森医学専門学校(現弘前大学医学部)に譲渡された。そのため朝陽小学校は本町一丁目の青年学校ならびに弘前国民学校の校舎に移転した。弘前国民学校は学制改革(新制中学校発足)で廃校になるので問題はなかったが、青年学校は校舎を失い、上白銀町の弘前市公会堂に移転した。
二十二年四月一日から六・三・三制が実施され、同年に新制中学校、翌二十三年には新制高等学校が発足するが、それらいずれにも入学できない生徒のために、青年学校はそれと並行して、二十二年度一年間だけ存続された。公会堂時代の青年学校は一年限り、教室は階下の広間を使用し、授業は午後から夜にかけて行った。
青年学校は、学制改革によって昭和二十三年三月三十一日をもって廃止され、弘前青年学校も昭和十七年四月からの六年間の短い歴史を閉じたのである。