太平洋戦争始まる

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昭和十六年十二月八日 今朝六時既に交戦。十一時四十五分畏くも宣戦の大詔渙発せられる。我等国民は今何をすべきや。既に聖断下る。只管(ひたすら)に信受、而して必勝の為めに今こそ国民は蹶起しなければならない。国内維新断行-これ至上命令なり。
国内体制の整備こそ緊急中の緊急事。これが完遂によって東亜の連盟は可能となり徹底的西洋民族打倒も行はれるであろう。必勝を期し、大君に応へ奉るの道は唯にこの維新成就の一途あるのみ。

 昭和十七年一月二日から四日まで、東亜連盟協会中央講習会が安房(あわ)小湊であり、石原莞爾中山優らの講義、各地同志との座談会があり、「全国各地から集った同志は皆輝かしい信念にあふれてゐる。自分は黙って見失ひ勝ちな自分を見出さねばならぬと思った」。
 緒戦の大勝利に対しては「一月九日 問題はなんといっても支那事変処理だ。この前提条件は日本それ自身の維新にある。この道こそは荊道だ。有頂天になってゐる時ではない。冷静に厳粛に天意を体して天命奉行の道に精神しなければならない」と戒めている。
昭和十八年六月三日
山本元帥の戦死、アッツ島の玉砕-最近の新聞はほとんどこの記事ばかりだ。戦意昂揚を期しての宣伝だ。たゞ決意する、声明する、決議するだけでいいだろうか。戦局そのものの苛烈さと深刻さを示すこれらの痛恨事は一体我々に何を要請してゐるのであろうか。

六月十日
三週間目で卒業論文完成、一日十枚。ロシア農奴制度下に於けるミルの問題。

七月七日
支那事変六周年、日本国民の反省はまだ足りない。この意義の体認こそ大東亜戦を勝ちぬく唯一の道ではないか。年を経るたびにこのさびしい反省の鞭を苛烈に感ぜずにはゐられない。

七月十二日
二・二六事件先仁逝(ゆ)いて七年。宇田川の獄舎での当時を想ふ。先仁に報告すべき何ものもなしえないこの貧弱さに我哭(こく)す。供養の道は只苦闘の只中に生き抜かんのみ。