このころ、佐藤正三を中心とした東京在住の養生会員を主要構成メンバーとした東亜連盟東京研究会は、指導原理の研究発展と同志組織の質的発展を任務として、外交政策は宮本誠三・小島渡・鈴木仁治、総動員計画は小野元士・葛西洋・宮本義平、組織計画は福井恒太郎・牧野朝彦・伊東勇治、政治活動は小田桐孫一・佐藤正三、文化活動は大谷誠蔵・山本省一・三橋正人が戦争計画として立案、毎週火曜日の夜に集合して分担発表をした。
東亜連盟同志会になってから弘前は地方協議会を結成し、その組織、運動論議などで盛り上がっていた。支部長鳴海理三郎、常任委員鳴海修、間山泰宣、古川英雄、福田健之助で、事務局は福田健之助、鳴海磯男らであった。第三回地方協議会は昭和十八年五月九日弘前養生幼稚園で、会員三五人が集まって開かれた。スローガンは「昭和維新は青森県より、謙譲と信念を以て正義を貫ぬけ」だった。研究会では、汪兆銘南京政府の無力、満州建国理念の関東軍独裁による堕落などを論じた。
昭和十九年一月、東亜連盟同志会の指導者中山優の求めに応じて、佐藤は「大東亜戦争ノ戦争指導ニ就テ」を書き上げた。