これまで見てきた「市長助役書類綴」のなかに、学兵課の事務引継書がある。それを見ると、学事関係、兵事関係の諸簿冊を保管してきたと書かれている。だが引継書にはそれ自体の内容は明記されておらず、「終戦後青森県及連隊区地方人事部等の通牒により重要書類は焼却せり」と記されている。つまり関連の引継事項は簿冊が焼却されているため、書くにも書けなかったわけである。これは陸海軍当局が敗戦に伴う連合軍からの責任追及を恐れて、軍事関係はもちろんのこと、兵事関係業務の簿冊や諸資料の焼却を命じたためである。敗戦後に海辺や川辺で行政書類を大量焼却したとの証言は、程度の差こそあれ、各市町村の調査でも行政担当者からよく聞かれる。だが敗戦前後の諸事情から、簿冊が偶然に残される場合もあった。今日、そのおかげで戦時中の徴兵と軍事援護の関連性などが理解できる。その意味で行政文書は貴重な歴史資料なのである。
弘前市長の引継書を見ると、弘前市でも兵事書類が数多く焼却されたことがわかる。しかしそれ以外の行政文書が、敗戦によって大量に焼却されることが通例だったわけではない。行政文書は基本的に作成段階で決められた文書の保存期限に従い、各自治体の指示や命令で保存と廃棄がなされていたのである(詳細は加藤聖文「敗戦と公文書廃棄」『史料館研究紀要』第三三号、二〇〇二年を参照)。
行政文書の焼却問題に顕著なように、われわれは昭和二十年(一九四五)の八月十五日を境に、一種の断絶があったと意識しすぎる傾向がある。もちろん八月十五日が日本で一番長い一日といわれたり、未曾有の敗戦を迎え、一つの画期として位置づけられることは周知のことであろう。しかし八月十五日を境に行政が途絶したわけではない。数多くの行政文書を見ても、八月十五日の断絶を意識する記述はほとんどない。行政事務が通常どおり継続している記述の方が圧倒的に多いのである。確かに社会世相的には八月十五日の画期は大きく、その断絶感は無視できない。突然の敗戦という混乱のなかで行政現場の担当者たちは業務に追われていた。価値観の転換などに困惑していた管理職も数多くいたであろう。しかし残された行政文書を見る限り、そのような印象はまったくない。行政組織は常に変わらず継続して機能を果たしていたのである。