敗戦後の日本国民が何よりも望んでいたものは食糧の確保だった。未曾有の食糧危機に政府は代用食を考案し粉食の普及を講じた。県当局の指揮のもとに、昭和二十一年(一九四六)二月七日、青森県未利用資源粉食協会が設立された。弘前市内でも株式会社愛国パンが設立され、代用食として市民に提供された。市内の菓子製造業者が組織の中心となって設立したもので、市民にはなかなかの評判となった。
しかし市民の食糧難がこれで解決したわけではない。そのため市当局は四月二十日、岩淵市長が市会議員を参集し、議員を五班に分けて所定の農村当局と懇談させた。農村から米や農産物を供出してもらおうというわけである。弘前市の中心部に住む市民の多くは消費者であるため、なるべく大量の必需物資を周辺の農村部に贈り、農村物資の放出を督促するという運動たった。
そのほかにも県当局では四月一日の告示をもって蔬(そ)菜廉売制を実施している。弘前市では弘前青果会社が荷受機関となった。しかしこれらの措置がすべてうまく機能したわけではない。なかには食糧業務に関与した諸企業の利潤を上げただけで、肝心の市民に食糧が供給されずに終わったものも多かった。食糧の供給が農村部からの供出に依存するために、市の中心部と周辺農村部との軋轢(あつれき)も生じていた。
弘前市当局と市民や市内企業の懸命な努力にもかかわらず、食糧問題はなかなか好転しなかった。この食糧危機を救済したのがアメリカ軍の救援物質である。小麦や缶詰など、大量の物資が運び込まれ、食糧危機に陥っていた弘前市も急場を凌ぐことができた。弘前市に限ってのことではないが、アメリカ軍からの食糧供給によって食糧難が避けられた自治体は多い。市会でも軍政府司令官に対し救援食糧放出の感謝決議を満場一致で可決している。
戦時中、「鬼畜米英」と蔑視意識を植え付けられ、恐怖の対象でもあったアメリカに対し、戦後の日本は日米安保条約を締結するなど、見事なほどの友好・癒着ぶりを見せている。それは単に政治的レベルの問題だけではない。アメリカの社会や文化に対するあこがれや関心、そして絶対的な好意をもつ点に象徴的である。それにはいろいろな原因があるが、アメリカに対する好意は、民主化政策の導入と食糧や諸物資を提供してもらい、日本の危機を救ってくれたという印象が強かったからだろう。