本県のりんご行政が一課を編成したのは昭和十二年(一九三七)七月の特産課設置が最初であり、その際、東京、大阪、名古屋、下関そして札幌に県物産紹介所が設置された。しかし、戦時体制に入った十七年、特産課は廃止され、農産課に編入、十八年には農務課と改称して戦後まで続いた。戦後、初代民選知事である津島文治(つしまぶんじ)はりんご振興に積極的な態度で取り組み、二十三年七月、りんご課を設置し、りんご行政を専管する一課とした。全国的にみても一種の果樹をもって県庁内に一課を設けるところはなく、〝りんご青森〟の名声を高めることとなった。りんご課の業務は、①りんごの生産および改良指導に関する事項、②りんごの集荷販売に関する事項、③りんご検査に関する事項、④りんごの試験に関する事項、⑤蔬菜の集荷配給に関する事項と定められ、初代りんご課長の岡本重規以下一九人の職員が戦後のりんご行政に携わることになった。
さらに二十三年十二月、県はりんご産業の振興を図るために、りんごの販売、管理などを一元化し、りんご金融を円滑化する目的で青森県林檎振興株式会社を設立するのである。資本金は三〇〇〇万円で、このうち半額は県が出資した。役員には、社長が代議士の苫米地義三、副社長は業者と生産者の清藤唯七・相馬友彦、専務取締役は前商工課長の田中健吉、常務取締役は初代りんご課長の岡本重規が就任し、多彩であった。事業はりんご輸送の促進と価格および出荷の調整、ならびに販売のあっせん、金融などであった。二十四年に一億二〇〇〇万円の増資を行い、資本金を一億五〇〇〇万円としたが、ドッジ・ラインのデフレーションにより、二十四年産のりんごは大暴落して、一五〇〇人の移出業者のうち一〇〇〇人も倒産する事態となり、それら倒産業者への融資が回収不能となった。その後、貸付回収不能額は累積する一方となるが、会社側は焦げ付き資金の内容を公表せずにいたため、しだいに信用が失墜していった。そして、二十九年にはとうとう銀行管理となり、青森市から弘前市に会社を移転して再建を図るが、三十二年に資金調達不能になると休業状態となり、ついに三十八年九月に解散となった(前掲『青森県りんご百年史』)。このように、県が主導となって進めたりんご振興会社運営構想は挫折するのである。