日本経済は終戦に伴い戦時経済からの転換を図られるが、金融面では大蔵省において金融制度の改革が進められた。昭和二十一年(一九四六)十二月、戦後の金融制度を整備するために金融制度調査会が発足し、翌二十二年十一月、同調査会は「戦後の新情勢に即応する金融制度整備の方策」を答申した。その答申を受けて、大蔵省は独自に金融制度の全面的再検討を行い、翌十二月、「金融業法案要綱」をとりまとめた。しかし、二十三年八月、GHQから「新立法による金融制度の全面的改正」なる非公式の指示で新たに「金融業法案要綱」を検討していくことになった。
その中で、中小企業に対する専門の金融機関として重要な役割を果たしてきた無尽会社と信用組合は切り離して立法され、相互銀行と信用金庫となった。そして、相互銀行は、無尽の持つ有効な割賦弁済の方式に、零細預金を吸収活用するとの二面を総合した新制度として創設される。二十六年六月の相互銀行法の制定に伴い、無尽会社の多くは相互銀行へ転換していくことになった。
転換の手続きは、無尽会社をそのまま認めるというのではなく、相互銀行法の施行後、三年以内に免許を申請し、大蔵大臣がその会社が相互銀行を営業するのに適当であると認めた場合に免許が受けられた。申請には定款、業務の種類および方法を記載した書面、事業計画書、会社の登記簿の謄本、株主関係の書面、営業所の位置を記載した書面、貸借対照表、財産目録、損益計算書の提出が必要であった(日本銀行金融研究所『日本金融史資料』昭和続編第二〇巻、大蔵省印刷局、一九九〇年)。
無尽会社が相互銀行に転換したことは、単に名称を変更しただけでなく、業務を拡張させることになった。従来の「無尽」は「相互掛金」と名称が改められ、引き続き主要業務であったが、預金業務ではこれまでの普通預金と定期預金だけという制限がなくなって、すべての預金とそれに付随する業務が可能となった。貸付業務では、従来の特定の担保貸付のみという制限がなくなって、すべての貸付、手形割引、当座貸越などが取り扱い可能となった。付随業務については、保護預りや株式の払込金の受け入れ、配当金の支払い、公共団体の金銭出納、他金融機関の代理などが可能となった。さらに、二十八年には内国為替の取り扱いも認められ、幅広い営業活動が行えるようになった(『弘前相互銀行五十年志』弘前相互銀行、一九七四年)。