敗戦の痛手から立ち直るように、いち早く部活動は復活の兆しをみせた。施設・設備・用具のどれをとっても満足なものは一つもない中でのスタートであった。運動部の場合、用具はおろか活動の場所にも事欠く始末であった。校庭やテニスコートは、戦時中、食糧増産のために畑にされていたのを自分たちの手で修復するところから始めなければならなかった。また、活動費の捻出が悩みの種で、生徒大会は予算獲得合戦の様相を呈した。
弘高は学業とスポーツの両立を掲げ、スポーツでも立派な成果を上げた。二十三年から始まった県下高校総合体育大会では総合優勝を飾り、第三回を除く七連覇を達成している。陸上競技や卓球部の活躍も目立った。二十九年の全日本卓球ジュニア選手権大会では、成田静司が堂々個人優勝の栄冠をかちとり、早大へ進んでドルトムントの世界卓球選手権大会に日本代表で選ばれている。