禅林街・太平高等学校

423 ~ 424 / 965ページ
西茂森町の禅林街太平中学があった。昭和二十一年四月、長勝寺専門僧堂の本堂を教室として開設された太平中学は、曹洞宗宗務庁が終戦の年の暮れ、全国から各県の代表者を集めて「宗門が繁栄するためには、優れた若い僧の養成」が急務であり、僧堂での修業と併せて、中等教育を受けさせることが大切であるというところから出発した。長勝寺は第七指定禅林となり、僧門の子弟の教育機関として仏門の後継者育成に当たるのが任務であった。指定禅林はまもなく専門僧堂と改称されたが、私立学校として県の認可を受け、開校の運びとなった。
 この種の学校としては、青森県が最も北で、学区も北海道・東北北部であった。昭和二十三年には太平高等学校と校名を改めたが、課程は普通科と仏教科に分かれており、一般人の入学も認めた。発足当初は生徒数はおよそ一〇〇人ぐらいであったが、生徒数の増加とともに独立した校舎を建て、独特な校風の学校として、その経営は、授業料や入学金のほか曹洞宗宗務庁の補助金で充当するという特殊性があった。
 二十六年には学校法人太平学園を組織し、理事長に須藤喚月を選んだ。しかし二十年代後期になると、仏門の後継者の養成課程よりも普通課程の入学者が大多数を占める結果となり、設立の主たる目的から逸脱していった。仏門の繁栄とそのための後継者の育成、そして戦後の荒廃を仏教で乗り切って救済しようと発足した太平高校ではあったが、その意図もここに終止符を打つことになった。太平高校が廃校となったのは、昭和四十三年のことである。