新学制における新制大学は昭和二十四年度(一九四九)に発足した。新制大学の制度化においては、特に国立学校の設置に関してGHQからの強い要請を受けて、文部省は二十三年六月、新制国立大学については一府県一大学設置の原則を定めた。既存の大学、高等学校、専門学校、師範学校などは統合あるいは独立を模索し、計画は難航したが、結局単科大学を含めて七〇校が二十四年度から発足することとなった。
昭和二十二年当時、本県内にあった高等教育機関は、官立弘前高等学校、青森師範学校、青森青年師範学校、青森医学専門学校(昭和二十三年二月十日弘前医科大学に昇格)の四校であった。師範学校は、改定師範教育令の制定によって、昭和十八年に従来の道府県立から本科三年・予科二年の官立の専門学校となり、また、青年師範学校は昭和十九年二月の師範教育令改正によって、従来の都道府県立青年学校教員養成所が改められて官立の専門学校へ昇格したのである。そして各校が独自の大学設立計画を進めていたが、先述の一府県一大学という文部省の方針により前記諸学校の首脳が会合して、総合大学設立を企画するのである。
『弘前大学二十年史』によると、弘前高等学校では法経学部、文学部、理学部、農学部のほか民俗研究所、馬産研究所を含めた弘前文理大学建設を、青森師範学校では東北、北海道師範学校長会議の申し合わせにより学芸大学への単独昇格を、青森青年師範学校では実業教育大学への昇格を、そして青森医学専門学校は弘前医科大学への昇格をそれぞれ目論んで、独自の大学計画を立てて運動を進めていたという。