弘前医科大学を別として、青森師範学校、
青森青年師範学校、
官立弘前高等学校はいずれも単科大学昇格運動を展開し、しかもその帰趨(きすう)は定かでなかった。そこで斎藤義雄県教育部長が、この問題について側面から文部省と折衝したところ、文部省は医大、青師、青年師、弘高の四校を
合併した総合大学を設置するよう強く要望した。しかし、四校
合併の総合大学については、各校ともその態度が定まらず、二十三年四月九日に至って、青森師範学校と
青森青年師範学校を
合併した学芸大学と、
弘前医科大学・
官立弘前高等学校による弘前総合大学という二つの大学とする案をまとめたものの、一府県一大学という文部省の方針は揺るがず、最終的にはこの方針に沿って、四校が一本に合同した総合大学を設置することで意見の一致をみたのであった。
昭和二十三年に文部省に提出された「国立
弘前大学設置認可申請書」は一四項目からなっており、目的および使命については、「本学は教育基本法及び
学校教育法第五十二条の規定に基き広く知識を授け人格の陶冶を図ると共に深く専門の学芸を教授研究し以て人類文化に寄与することを目的とする」と述べている。設置学部は文理学部、教育学部(分校も含む)、医学部の三学部である。
写真142 発足当時の弘前大学医学部(在府町旧朝陽小学校)
こうして、
弘前大学は昭和二十四年五月三十一日、国立学校設置法に基づき、他の全国一八五
新制大学とともに開学し、同年七月十八日に第一回入学式を、同二十三日に開学式を挙行した。