百貨店の増加

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いまひとつの変化は百貨店の増加である。従来、市内には「角は」宮川百貨店があったが、これに加え、昭和三十九年(一九六四)に、中小企業近代化資金助成法の適用を受けた新幸(しんこう)デパートが、小売り協業化の百貨店形態で営業を始めた。しかし、同デパートは営業不振に陥り、昭和四十一年(一九六六)に経営主体が東海興業に変わり、店舗の名称もナカニシに変わった。同店は昭和四十四年から、百貨店法の適用を外してニューナカニシとして営業していた。一方、昭和三十六年に中三(なかさん)が衣料品専門店として弘前に進出し、翌年から営業した。中三は五所川原市で営業を行っていた呉服店から出発した百貨店である。昭和四十二年(一九六七)に中三が百貨店業の店舗新設を申請した。この申請はそのままは認められず、一年後の昭和四十三年から百貨店法に基づくデパートになった。昭和四十五年に、中三はニユーナカニシを併合し、新たな中三弘前店として営業を始めたいとの申請を出した。これに関する弘前商業活動調整協議会が、同年五月に陸奥新報社ホールで開かれた。非公開の協議の結果、この申請は認められた。ニューナカニシの店員はいったん解雇のうえ、中三が引き取ることにした。また、両店のほか、ヤマダイ百貨店として営業していた。

写真163 下土手町商店街

 昭和四十五年十二月にカネ長(ちょう)武田が百貨店としての営業を申請した。このときの弘前市商業活動調整協議会の議論は次のように記されている。
 弘前商業活動調整協議会(会長・長谷川豊治弘前商業校長)は二十五日、弘前商工会館で開かれ、カネ長弘前店のデパートの申請を認めることを決めた。弘前商工会議所はこの決定を百貨店審議会へ送付するが、これまでの慣例で百貨店協議会は地元の意見を一〇〇%尊重する建て前になっており、カネ長弘前店のデパート化はほぼ確実となった。二十五日の協議会には二十六委員のうち二十二委員が出席、カネ長から出されたデパートの開設申請をどう取り扱うかについて話し合った。「弘前市の経済基盤からいってこれ以上大型店をふやすことは問題だ」「青森や八戸と違い、購買力は頭打ち状態にある」と、同デパートの申請に難色を示した。
 しかし、小売り関係をはじめ大半の委員は年商二十二億円という同デパートの売り上げ構想に不安を持ちながらも「最近の傾向として青森商圏へ購買層を吸収されているのは、地元に魅力ある大型店がないからだ、その意味ではカネ長弘前店の開店により、地元購買層を引き戻す効果は期待出来る」という点て一致、また「現実問題として建て物が出来ているのに認めないといっても無意味。デパートが認められなければ擬似百貨店でスタートするだろうし同じことだ」とする意見が強く、採決の結果、賛成で同店のデパート申請に同意することになった。ただ、同調整協議会は小売り、卸し売り関係などの委員の意見に基づき、①二重価格、乱売、割り引き行為をやめ、品格のある経営をやってほしい②駐車場を設置してほしい③店員の引き抜きはやらない④地元商店の活動に積極的に協力⑤弘前の商業界に混乱を与えない⑥地元で調達出来るものは地元から-の六項目の付帯条件をまとめ、百貨店審議会へ具申することにした。店員の引き抜き防止を条件にしたのは今回が最初。
 カネ長弘前店は来年一月十五日オープンを目標に、下土手町の一角で突貫工事中。申請によると地下一階地上八階で売場面積は九千八百九十八平方メートル。既設のかくは宮川の五千二百二十一平方メートル、中三の七千五百二十四平方メートル、ヤマダイの千九百七十七平方メートルをしのぐ弘前一の大型デパートになる。
 各階の配置は地下が食料品関係、一階は衣料品、身回り品、二階から五階までは衣料品、雑貨類、六階は家庭器具、雑貨、七階は文具、スポーツ用品、がん具、八階がボーリング場となっている。食堂、プレイランド、ボーリング場は売り場面積から除かれており、これを含めると一万一千三百四十平方メートルになる。店員数は二百三十人。申請によると年間二十二億円の売り上げを見込んでいる。
(『弘前商工会議所会報』一六五)

 こうしてデパートの数も増え、専門小売店を含めた商店間の競争が激化し、商店街のにぎわいを生み出した。