言語障害児の何%かは難聴に原因があるという。すなわち、難聴児の救済は言語障害児の救済につながるものであり、したがって、言語障害学級に併せて難聴学級が設置されなければならない。そのような理由から第二大成小学校は難聴学級の開設を計画し、四十四年十月その計画書を市および県教育委員会に提出した。
難聴学級設置は県教委に認可され、担当者として昭和四十五年四月飛島雄平教諭が着任。同教諭は四月から十二月まで県立弘前聾学校に出向して、聴覚障害児教育の研修に励んだ。四十六年四月内海カチエ教諭が難聴学級担任として着任、難聴学級教室も六月に完成、指導が開始された。担当教諭二人、児童は一学級八人であった。
難聴児は生活面においてコミュニケーションがうまくできないため、情緒不安を起こすことがあり、しかも普通児より学ぶことが多いため、その指導は困難をきわめる。その中で飛島教諭は普通児の中に難聴児を適応させるために、特に生活面に配慮したという。また、難聴児教育は個別指導が多いため、一学級一〇人以上の指導は不可能であった。そのため四十七年四月には一学級増設、秋元宏教諭が着任して二学級三担任となった。
戦後教育の著しい特徴として、特殊教育の充実を挙げることができよう。また、特殊教育こそ恵まれない子に喜ばれ、その親に感謝される教育と言い得よう。