本部封鎖事件

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昭和三十五年(一九六〇)六月十五日、政府の日米安全保障条約改定を阻止するため、全学連(全日本学生自治会総連合)主流派が国会に乱入、警官隊と衝突し、女子学生が死亡するに至った。
 その後、学生運動は、学費の値上げ反対や学園の民主化要求などを掲げて全国的な広がりをみせる。とりわけ、全学連の学生集団が東京大学安田講堂を占拠した昭和四十三年には、全国一一六の大学で学園紛争が発生し、東北地方でも翌年には秋田大学、東北大学、山形大学などで紛争が起きた。
 弘前大学においても例外ではなく、昭和四十四年(一九六九)六月には開学以来初の学生ストライキが行われた。大学立法(大学運営臨時措置法)に反対する教養部と教育学部学生自治会の呼びかけで全学集会やクラス討論が行われたのである。
 しかし、同法は八月三日に成立し、このころから弘大紛争は日共系、反日共系の学内主導権争いが表面化し、九月六日、反日共系学生はついに大学本部を占拠した。これに対して大学当局は警察力の学内導入を図り、同月二十七日、六七九人の警察官が学内に入って学生による本部封鎖を解除した(資料近・現代2No.五三八)。
 その後、この大学当局の実力行使の責任を追及し、柳川学長の退陣を迫る学生ストライキが医学部、理学部で起こり、教養部では十一月七日から翌年の二月八日までの九三日間にも及ぶ長期ストライキとなった。
 しかし、十二月からは一般学生の間には入試や卒業式を控え事態収拾の動きが高まり、大学側の強い姿勢とあいまって二月中旬以降は平静を取り戻し、三月十六日には卒業式が挙行された。

写真210 文京町キャンパス全景