石油危機の推移と高度成長の終焉

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一九七一年(昭和四六)夏、米国はベトナム戦争につまずき、ドル防衛に入り、金・ドル交換を一時停止した。米国は強大なドル戦略の転換が求められる状況となっていた。石油産出国のアメリカが一気に大量の輸入国となった。
 昭和四十七年夏、日本列島改造をひっさげた田中角栄が首相になった。ベトナム特需で潤ったところへ積極財政である。「日本列島改造論」は、田中が各省庁の専門家集団を動員して作り上げた高度成長期以後の日本の設計図である。この政策から企業の土地買い占めが起こって全国の土地が投機の対象となり、諸物価の高騰が始まった。そのころ、日本はエネルギー源を石炭から石油に転換し、石油化学製品の増加、自動車や電気によるエネルギー多消費型の生活、総じて消費の多寡を文明のバロメーターとする高度成長によるエネルギーの需要増の生活に無警戒に惑溺していた。列島改造論の石油認識は「大型タンカーの活用によって日本は世界最大の油田をもっている」ということだった。昭和三十五年に石炭によって五六%だったエネルギー自給率が、四十六年には一五%まで低下していた。
 石油不足の情報はたちまち消費者のパニックを引き起こした。田中内閣は緊急の対策を立て、福田赳夫が大蔵大臣となり、副総理三木武夫を中東に派遣した。しかし、物価騰貴は売り惜しみや便乗値上げによって加速された。九月にキロ一二〇円の砂糖が十一月に小売店で二〇〇円、東京赤羽のスーパーでは三五〇円に跳ね上がった。この時代は、まだつらい戦後の物不足の体験が国民の心に色濃く残っていた。かくて高度成長の時代は終わった。土地ブームで農協団体が〝ノーキョー〟として世界を濶歩(かっぽ)した時代は終わった。次には脱石油方策として原子力発電が登場してきた。このとき日本は、エネルギー危機を技術革新と産業構造の転換、合理化で乗り切った。しかし、深刻さを増したのは第一次産業、ことに農業だった。