高度経済成長に伴う公害が顕著になり、自治体でも清掃業務の維持・管理が痛感されるようになったため、国は昭和二十九年(一九五四)に清掃法を制定し、本格的な清掃事業に取り組むようになった。これを受けて各自治体では清掃条例を制定し、清掃事業に取り組まざるを得なくなった。
弘前市では翌年の十二月に市議会へ弘前市清掃条例案を提出した。条例の目的をうたった第一条には、「特別清掃地域(主として市街地区域)の汚物の清掃と収集処分に関し必要な事項を定める」とあった。条例の内容をみると、まず清潔の保持が項目に上っている。具体的には汚物処理であり、便所の清潔保持だった。汚物の放置と河川への垂れ流しが、市内を汚す最大要因なのである。それが河川に流されれば悪臭を放ち、不衛生になるのは当然であろう。
そのほかに注目される項目としては犬・猫の死体(骸)放置であろう。第五条に「清掃義務者は、犬・ねこ等の死体を埋没等の方法により自ら処分することが困難なときは、市長に申し出なければならない」とあった。ちなみにこれら汚物の収集や処分に関し、清掃義務者から徴収する手数料は、糞尿一斗(一升瓶一〇本分)一〇円で、犬・猫などの死体は一頭につき五〇円と定めている。なお、この条例案は昭和三十一年一月二十三日に可決し、二十七日に公布・施行された。
しかし衛生問題は市当局の対応策だけで済む問題ではなかった。市当局ではトラック三台を増やして対応すると表明している。だが戦後経済が高度成長期にかかってきた昭和二十年代後半以降、ゴミは増える一方だった。それだけ市民の食生活や文化活動が豊かになった証拠である。もちろん高度経済成長期の日本が、生産と消費に拍車をかけ、作っては捨てるサイクルをとっていた結果でもあろう。
公害問題が国全体で問題視されるにつれ、弘前市当局も市民もゴミ対策の必然性を痛感するようになった。昭和四十年七月、町会連合会と保健衛生委員会は、環境衛生推進計画を立ち上げた。そして市の美化運動の一環として、全市民の参加を求めた清掃運動を開始した。土淵川の一斉清掃、ゴミの不法投棄防止運動の実施、清掃の日の設定、予防接種など、今日までも続けられている運動項目が計画された。宣伝方法としてポスターやチラシを活用し、報道機関にも協力を求め周知徹底をはかることとしている。このほかにも春季大掃除などのイベントを行っている。
しかし衛生設備や清掃設備白体が老朽化し、人口が増えゴミの絶対量も増加する一方では、市当局による大きな活動が必要になってくるのは当然だった。その結果、昭和四十一年(一九六六)、樹木地区に弘前地区環境事務組合の事業としてゴミ焼却場を建設することになり、その敷地に市のゴミ収集基地も併設することになった。その後、昭和五十三年に町田地区に、より近代的な中央清掃工場が稼働し、焼却部門は移転した。樹木の焼却場は市の清掃事業所と名を変え、ゴミ収集車の車輛基地として残った。
平成十五年(二〇〇三)、町田の中央清掃工場の隣に、環境センターが稼働を始めた。産業廃棄物が全国的に問題視されるようになり、環境維持を叫ぶ世論も高まったため、弘前市でも対応を迫られるようになったのである。この環境センターはダイオキシン規制を実現するために新築されたもので、それまでの中央清掃工場の業務が引き継がれた。