ところで、この評論『青春の終焉』は、日本の近代文学、現代文学のみならず世界の文学にも、いや、文学だけではない。思想や哲学にも、そして経済や政治にも、さらに古代から現代までの歴史にも触れた大作である。青春がなぜ終焉したのか、近代的自我の問題とは、青年という言葉が、現在ほとんど使われないのはなぜか。日本の近代文学を、否、世界の文学をも席捲(せっけん)した〈青春〉が、文学や政治から姿を消したのはなぜか。その秘密を解く鍵の一つを、時代の流れ、思想の変化に求めることができる。高度成長経済と、実存主義から構造主義への流れは青春のみならず〈教養の終焉〉、そして〈大学の死〉をも告げた、という筋道で論を展開する。
三浦雅士は明晰な分析、鮮やかな比喩でこれらを実証していく。冒頭、週刊誌「朝日ジャーナル」を語る。時代は六〇年安保から全共闘闘争へ向かう。小林秀雄をはじめ三島由紀夫、中村光夫らに触れ、日本の近代文学の根幹には〈青春〉が確かにあった、と論を進める。そして、明確にこういい切る。
「朝日ジャーナル」は学生運動の退潮とともに、急速に凋(ちょう)落することになる。そして、その凋落には、青春の終焉という文字がくっきりと刻みこまれていたのである。
写真261 三浦雅士