民謡が盛んになっていく一要因として唄会があったことが指摘されている。始めは地域の裕福な家の広間などで行ったのだろう。これも、前出の『津軽民謡史』では次のように記されている。明治四十三年に鳥井野(とりいの)の成田弥右衛門(なりたやえもん)宅で津軽民謡、手踊りを興行したのが興行の嚆矢(こうし)であろう。大正二年十月に弘前公園で馬市があったとき、津軽演芸が筵(むしろ)小屋を張り、大入り、津軽民謡の市街地での旗揚げ濫觴(らんしょう)である。大正四年五月の花見にも筵小屋をかけ、「唄会アー十銭十銭 外サ立ってネで 入ってケヘジャ」と客引きをしていた。田舎者でない市人(しじん)は馬鹿にして入らなかった(前掲「津軽民謡史 大正篇」)。