わらべ歌

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明治二十年代の和徳小学校の「日誌」には「女生徒遊戯歌に『何処へ盃やりましょう』等を用いる不可なりと思はる」、「女生徒の毬つきの用いる歌謡を聴くに何の意味なき眠るがごときの謡(うた)を唱へて遊び居る様考へらるるが、願わくは出校にてはこのあやつき謡并(ならび)に毬つき謡を改良し唱歌課にて習いし風致(ふうち)あるものを以て之に充てしめば如何」とある。これは当時の方言矯正(きょうせい)思想と呼応して、「わらべ歌は卑猥(ひわい)であり、それを避け、善良な音楽もって道徳的に矯正させる」目的があったためである。このときに理想とされたのは文部省の唱歌であったが、時が経ち、大正期になると、文部省の唱歌を否定する運動が起こる。童謡運動は大正七年(一九一八)児童雑誌『赤い鳥』が創刊されてから具体的に始まり、「俗悪な読み物と貧弱低劣な音楽を廃して、純真な感情を開発する」を標語とした。この「貧弱低劣な音楽」とされたのは文部省の唱歌であった。しかしながら、『赤い鳥』に続く『金の船』『金の星』による隆盛は大正末期から下火になり、昭和四年には『赤い鳥』(前期)が廃刊となり、他の出版物も相次いで廃刊となる。
 第二次世界大戦後は中田喜直や団伊玖麿(だんいくま)に代表される作曲家たちの新しい様式の童謡が多くつくられ愛唱された。弘前市においても、この潮流は同じであり、戦後の弘前子ども会(後述)の活動から生まれた《春の鐘》(蘭繁之(らんしげゆき)〔本名・藤田重幸〕小島正雄(こじままさお)作曲)もその類の歌曲である(譜例4)。戦後の「わらべ歌教育」運動の中には、文部省の検定による固定された音楽教材・指導法への反省が含まれていた。

図21 <譜例4>春の鐘

 津軽・南部の伝統的わらべ歌は、工藤健一(くどうけんいち)によって『青森のわらべ歌』(柳原書店、一九八四年)としてまとめられ、録音は前述の『青森県の民俗音楽目録』に含められている。