明治三十年(一八九七)に再建された弘前美以教会堂はゴシック様式で、正面玄関は高くそびえる尖塔で偉容を呈し、玄関をはじめ各開口部はポインテッドアーチで造られ、四方はバットレスで飾られている。明治三十七年(一九〇四)焼失後、同三十九年に建てられた現在の建物は、熱心な信者であり、クリスチャン棟梁と呼ばれた桜庭駒五郎(さくらばこまごろう)の設計で、工事担当者は堀江組の長谷川金太郎である。傍らに在(あ)った牧師館も手法に共通点が多く、同じ駒五郎の設計と思われ、教会堂に先立って建てられていた。
写真294 弘前美以教会(明治30年)
現存する弘前カトリック教会会堂は明治四十三年(一九一〇)に再建されたもので、イタリアロマネスク様式でまとめられ、半円形アーチや内部のクロスリブヴォールトとともに、側面のステンドグラスが美しい。同教会のオージェ神父の設計指導のもとに、佐吉の次弟横山常吉が施工したと言われている。
写真295 弘前カトリック教会会堂内部(クロスリブヴォールト構造が見える)
明治三十三年(一九〇〇)には、山道町に日本聖公会弘前昇天教会聖堂が建てられたが、大正九年(一九二〇)に改築された現存の聖堂は、煉瓦造平屋建てで、ゴシック様式でまとめられている。設計は、現在愛知県明治村に保存されている元京都河原町の聖ヨハネ教会堂(明治四十年〔一九〇七〕完成・重要文化財)と同じ、J・M・ガーディナー(アメリカ人。宣教師、建築家)であると言われている。規模こそ小さいが、この建物は、構造といい造作のディテールといい、実によく似ていて、手の込んだ作品にまとめ上げられている。
こうした教会堂の建設に伴い、司祭や牧師のための住居の建設も行われるようになってくる。日本聖公会弘前昇天教会司祭館〔明治三十三年〔一九〇〇〕)、東奥義塾外人教師館(明治三十四年〔一九〇一〕)、弘前学院外人宣教師館〔明治三十七年〔一九〇四〕登記済)、日本基督(キリスト)教団弘前教会牧師館(明治三十七年〔一九〇四〕)等がそれである。これらは構造・造作とも洋風であるが、履き替え玄関だったり、一部に畳敷きがあったりするなど、当時の暮らしの状況を考え併せると興味深いものがある。