木村産業研究所

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日本の近代建築史において、最も重要な一人に数えられる建築家に前川國男(まえかわくにお)(明治三八-昭和六一 一九〇五-一九八六)がいる。前川の代表作としては、世田谷区民会館(昭和三十二年〔一九五七〕)や東京文化会館(昭和三十六年〔一九六一〕)などが挙げられるが、昭和七年(一九三二)、その記念すべき処女作として建てられたのが在府町の木村産業研究所である。
 前川は、このころに、二年間師事したフランスの建築家ル・コルビュジエのもとから帰国して、東京レイモント建築事務所で働いていたが、木村静幽(きむらせいゆう)(元弘前藩士。主として大阪方面で活動した実業家。その遺志により木村産業研究所が設立された)とその孫木村隆三(りゅうぞう)のつながりから、この建物を設計することになったのである。
 一九三〇年代前半に、装飾のないすっきりした白いモダニズムの建築は世界的にも珍しく、日本においては皆無に近かった。ドイツ人建築家であり、桂離宮などの日本の美を世界に紹介したブルーノ・タウト(一八八〇-一九三八)は、この建物を訪ねた折に、その印象を「ル・コルビュジエ風の白亜の建築」と日記に書きとどめている。後年、屋根がかけられたり、一部の外観に改造の跡が見られたりするものの、スチールサッシュや床タイル、家具なども含めて、当時の面影を色濃くとどめており、現在も事務所として使われている。
 平成十六年(二〇〇四)に至り、木村産業研究所は文化庁の登録有形文化財に指定された。これは、前川設計として初の指定だけでなく、日本人設計のモダニズム建築としても初登録となるものであった。

写真300 (財)木村産業研究所旧状(昭和16年)