弘前との因縁

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弘前市において前川が二番目に手がけたのは、県立弘前中央高校講堂であった。同校では、創立五十周年記念事業として講堂の建設を計画したが、全国的な水準のものを造りたいとの考えから、その設計については前川國男に依頼することとし、快諾を得た。これには、前出の木村隆三の兄が同校PTA会長を務めていたことが力になったと思われるが、前川は早速同校を訪れ、校地を検分したのち、昭和二十六年(一九五一)、鉄筋コンクリート造二階建て、建坪一六二坪の当時としては東北随一の文化施設となる講堂を設計したのであった。
 前川の母・菊枝は、旧弘前藩士田中坤六の娘であるが、その兄であり、参議院議長、国連大使、東京青森県人会会長を務めた佐藤尚武(さとうなおたけ)(佐藤愛麿の養嗣子となったため姓が変わっている)は前川の伯父に当たる。前川が東京大学を卒業し、ル・コルビュジエのアトリエに入る際、当時国際連盟帝国事務局長としてパリに駐在していた佐藤が後見人として自宅に預かることになり、また、前川の滞仏中、駐仏武官としてパリに来ていた前出の木村隆三とも親交が結ばれ、これが後年弘前との関係をもたらす機縁となったのである。
 前記二件の設計をしたことで、前川は建築の面でも弘前とのつながりを持つことになった。そして、このつながりをいっそう深いものとしたのは、昭和三十一年(一九五六)、当時の藤森市長が上白銀町の現在地へ市役所新庁舎を建設することとした際、その設計を前川に依頼したことにある。

写真301 弘前市役所