さらに、競技スポーツにしてもオリンピックや国体等だけではなく、市町村対抗県民体育大会もあれば市民総合運動会もある。例えばこの県民体育大会では、弘前市は二六回も総合優勝しているのである。五九回のうちの約半分の優勝ということは、弘前市がそれだけスポーツにおいては群を抜いているということである。また、豊田児童センターの一輪車の活躍も忘れてはならない。
スポーツという言葉の語源に遡るまでもなく、本来的にはスポーツとは「気晴らしをすること」を意味しているが、しかし、例えば、ソフトボール競技で、世界の頂点たるオリンピックに出場した斎藤春香選手の活躍を見るとき、そこには単に「気晴らし」であるだけではないスポーツの奥深さも感じないわけにはいかない。
なぜなら、平成八年のアトランタ大会、十二年のシドニー大会、そして十六年と、実に三大会に連続して出場し、みごとな成績を挙げたその陰にある、余人にとうてい想像することのできない血のにじむような努力、練習が思い起こされるからである。弘前市に生まれ、弘前市立第一中学校、青森県立弘前中央高等学校を経て、やがて世界に羽ばたいたことは、まことに欣快の極みであるというほかない。
十六年のアテネ大会で、日本人が大活躍したことはすでに述べた。今、この大会のことに触れているのは、選手の活躍だけからではない。あのレスリングの赤石光生が、二八年ぶりにオリンピックの舞台に戻ってきたアフガニスタンの選手団の中にいたのである。昭和五十九年のロサンゼルス大会で銀メダル、平成四年のバルセロナ大会で銅メダルに輝いた往年の名選手が、今度はアフガニスタンのレスリングのコーチとして参加したのである。「アフガニスタンのレスリングの礎になれば」という赤石光生の言葉の持つ意味は大きい。
そして、コーチに誇りを持つという談話は、アマゾンの開拓に命を懸けた弘前市出身のある男を思い出さずにはいられない。前田光世である。それは文字どおり、命を懸けた前田光世の渾身(こんしん)の勝負でもあった。ブラジルの国籍を得て生涯をその開拓に捧げた。望郷の念を抑えながら、前田光世は一度も日本に帰らなかった。「民族の誇り」を支えに夢を追った前田光世、そしてアフガニスタンの礎を築こうとしている赤石光生、その二人の夢は、二十一世紀に生きる故郷の若者へのメッセージでもある。
写真312 赤石光生