都志見往来日記 翻刻テキスト

 
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都志見往来日記
 

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都志見往来日記
 
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都志見往来日記
  山縣郡都志見(つしミ)の瀧ハ、俚人談にも出セる名高き
  飛泉なれ者、其真景を寫さんと欲るの
  志多年やむ事なし、遂に寛政丁巳の秋
  官に申て其事を請奉りしに、かたしけ
  なくも 命下りて、都志見遊覧の休暇
  を給ふ、こゝに於て八月廿三日より同晦日まて
  過候所の山川、其竒絶なるものハ真
 
 
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  景を寫し、并ニ其聞ところの方言俚語
  を其儘にしるす
寛政丁巳八月廿三日 府城を發し、己斐・古江・
草津を過井ノ口に至る、折しも潮干落て濱傳ひ
に過る程に、子乞(ここひ)の山海にそはたち、嚴嶋・つくね
の嶋々南の海上に浮ひ、風景いハんかたなし、夫より
汗馬(あセば)を過八幡(やハた)川の橋を渡り、道を右にとり北に
向ひて行、右に八幡の社あり、保井田(ほいだ)村に至り庄屋
 
(改頁)
 
四郎左衛門所に昼休す、予、四郎左衛門に向ひ、さきに
過し汗馬(あセば)の脇にがきが首と云所あり、がきとハいかに
もいやしき名なるが、外に唱ヘハなきやと尋けれハ、されハ
此邊ニてハ、小山の嶮なるものをがきと申ならハし候、
子乞(ここひ)の山なともがきの内にて候と申により、其わけハ
いかにといへ者、四郎左衛門申けるハ、嚴嶋縁記にも佐西の
郡宮内()がきか浦とかヤ申て、往古ハ草津より小方
迄の間を總て宮内と唱申候、其間の浦々にがきの
 
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数十あると申わけにて、()がきか浦と唱へ候、當時ハ
いづれ/\と申事ハ傳らす候へとも汗馬(あセば)の小山、
井口の子乞(ここひ)の山なども十がきの内と申傳へて候、今
にても能々しらへ候ハゝ十もあるべく候と云、がきとハ
いづれ古言なるへし、保井田を出て寺田を過下
河内へ移る所、川端に茶屋三軒あり、川にちさき(やな)
あり、此所より山に登る道次第に嶮にして左右
切り岸高き事三、四間はかり、其間を過る、此邊所々
 
(改頁)
 
家あり、半道程登りて左り山高く右の方谷深し、
過し夏の頃、水内へ入治の人夜中あやまりて此所
より落る事凡十四、五間はかり、されとも幸ひに
死に不及、水内へ行入治セしと所の者いへり、猶登
りて左の方森の内に社あり、此所を宮の風呂と云、
それより漸く登りて河内峠に至る、暫く芝居して
詠るに、北に大山峨々として半腹に細き樵路あり、
下に谷川帯の如くにめぐれり、上より見れハ此川
 
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所々渕ありて藍のことくに分る、此峠より西北の方へ
斜に下りて谷に入、左山高く、右に流を見て行
程に樹木茂り隱々として冷かなり、道の邊りくハ
とう蘭雪もやう美しく花咲り、それより葛原(つゝらハら)
移る、西北に向ひて行、所々家あり、右の方山に添
て道あり、右に客大明神の社あり、次第に山に登る、
峠に至りて風景なし、此山を下りて上伏谷に至る、
總て此邊道細く石高して駕籠石に當り木根
 
(改頁)
 
にかゝりて安からす、やう/\として庄屋甚九郎所に
至りて止宿す、甚九郎家ハ餘程山の上にあり、
暮に及ひて寒き事甚し、ミな/\綿入を着し
火に當りて寒さを凌く、今日ハ格別寒きヤと宿
の者に尋るに、けふハいつよりあたゝかなる方ニ候といふ、
是より跡に十文字原といふ所あり、廿日市への岐路
なり、故に十文字原と云なるへし、此所の郭公ハ
鳴聲ゆふに長して俗ニ云ホゾンカケタカト詳に分ると
 
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或人いへり、此ころハ節おくれたれハその事ハなく
とも風景寫すへしと思ひしに駕籠に眠りて
行過き其事空しくなりぬ
廿四日、上伏谷を出て北に向て行大森に至る、森ハ
道より右にありて内に八幡の社あり、此森ハ名に
たかハす大木生茂れり、其中に一際高く生立たる
杉を天狗の腰掛杉と云、人をして木を抱しむる
に五人周りて猶餘りあり、根より三間はかり上にて
 
(改頁)
 
枝四つにわかる、其真中に寄生(やどりき)一株あり、木ハふくら柴
にて高さ五間はかり也、森の内大木数ふへからす、
先年嚴嶋大鳥居の木も此森にて七本伐りしと
いへり、此森より東にあたりて少し小高き所ニも森あり、
是ハ大森の山の神を祭る、其祭ハ三年に壹度ツゝ
九月廿九日に祭礼あり、わらを以て大なる龍の頭を
作り(かつら)の木に(しば)り置と云、是より道を右にとり東に
向ひ山に入る事十四、五町はかり、白井の瀧に至る、
 
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瀧ハ二段にて、皆石をつたひて落る、水幅凡壹間に
高さ二十間はかり、夫より谷を出て本道に出、北に
向て下伏谷に移る、右ハ高畠(たかはた)山、左ハ大野地(おゝのじ)山、下
を大野地原と云、向に湯の山見ゆる、上伏谷の地至而
高し、故に此所より水南北に分て流る、是より水内
邊まて皆北流水なり、道も漸々に下る、是によりて
先に下伏谷の寒き事の断を初て悟れり、夫より
鍋石(なべいし)に至る、左の方谷川の向に明神杉一株あり
 
(改頁)
 
盤根石をからミて枝葉流を覆ふ、此邊谷川の
底總て一面の大石なり、杉木の下流の底にくぼき
所二つあり、是を釜石・鍋石と云、わたり三尺はかり
深さも夫に應す、旱魃の時此釜を洗ふ、其洗ふ人ハ
蓑笠を被、大あめじや、やれうるさ/\と云て雨乞を
すれハ雨降ると云へり、其わきに馬蹄の跡壹つあり、
枕石あり、此所十間はかり下山の根に嚴嶋明神の
小社あり、其後より細泉湧て社の左右に分れて
 
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流れ落る、是を眼洗水と云て、眼を病る人此水にて
洗へは忽に平癒すと云、此水至而清泉鏡のことし、
青黒き石の間を傳ふて流る、然るに此水の流る跡
色赤してあさやかなる事朱の如し、誠に彩色たるか
如し、竒とすへし、夫より堂原川に至る、此所より
向を望めハ峨々たる石山あり、から谷山と云、から谷とは
水なき山なる故に云ふといへり、川を渡りて民屋数
軒あり、則和田村なり、川ハ右の方山にそふて北に流る、
 
(改頁)
 
十町はかり行て道の左右松茂りたる所より左の方、
峯に岩重なりたるを(うす)(ぢう)といふ、其峯を岩渕山と
いふ、前ハ湯の山なり、山の尾さきを廻りて則水内の
温泉なり、人家建つとひて二階造りに傳ひの廊下
を渡し或ハ三階にもふけて山より各道を通しミな
湯治の人々の便にしたかふ、其邊に大般若の経塚あり、
大同二年正月の字を彫、此石往年此所の地中より
堀出セるよし云へり、右に鳥居ありて温泉大明神の
 
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額あり、則明神へ登山の道とす、其上に休堂あり、
湯治の人の憩息の所とす、左の方谷に臨ミて斜に
石段を登る、脇に高欄をもふく、是則温泉の道也、
湯所ハ明神の下切岸の上掛造りにして湯壺を三つに
分つ、一の湯ハ四疊はかり、二の湯ハ六疊はかり、三の湯ハ
一疊はかり、各前に板座あり、上に格子ありて明りを
通す、湯の餘れるもの切岸より落て瀧となる、明神の
社は二間はかり、拝殿ハ長六間、本社と拝殿の間階を
 
(改頁)
 
登る事五間、甚急にして上に屋根あり、拝殿に琵琶
四面を掲く、皆琵琶法師此湯に浴して眼明らかに
なり業を改て寳前に残す處なり、此外ニのぼり二本
あり、皆いざりの人平癒し其霊験を記すなり、
湯壺の上に板の額三つあり、皆痼疾平癒の事實
を記すなり、扨けふハ中秋廿四日、さむき折なれは
入治の人も多からす、漸八、九人はかりと思ハる、皆々
心静に湯に入んと湯壺の口に向へは、何となく湯の
 
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氣人面に衝を覺ゆ、手をさして試るに温なる事
人肌のことし、則衣を脱て湯壺に入る、初て肌を浸
す時冷氣を覚ゆれとも、湯中に座し暫くして温
にして湯中に在事を覚へす、過し夏入治セし人
ありて云けるハ、夏の内ハか程に温にハなかりし、朝夕はかり
ハ少しツゝ温かに覚へしといへり、夫よりたら/\瀧を
見んとて案内の者を先たて北に向て行、左に舩越(ふなさご)
山并ニ砥石(といし)か嶽あり、峯ハミな大石を戴く、其中に
 
(改頁)
 
凸出したる巖あり、中黒く両方白く眼にたちて見ゆ、
是ハ十二年前此巖に雷落かゝり巖碎て一片ハ
山前へ落、一片は山後へ落、其真中残りて斯の如しと
いへり、此山の後たら/\瀧なり、此諸峯を左に見て
北に向て行、寺あり、妙安寺と云、所々人家あり、此所より
山に入事三、四町、道よからす、たら/\瀧に至る、瀧は
二段に落、中段に平地ありて千疊敷と名つく、此
段に登る事道甚あやふし、漸よぢ登中段の平地
 
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を見るに前に峙たる巖ありて其蔭にちさき瀧あり、
此小瀧ハ下よりハ見へさる故に此小瀧をさして恨か
瀧といふともいへり、夫より湯所に歸りて岩田屋
為次郎所に宿す、所の庄屋源右衛門来りし故兼而
聞及し湯の玉其方才覺を以見る事ならさるや
と云けれハ、是ハ川向に居申向寺(むかふでら)平七と申者所持
致し候と申により、夫ハいかやうなる玉そと問しに、青石
の如くにして少しつゝ白き所もあり、圓き石にて大さ
 
(改頁)
 
拳程なるもあり、又玉子はかりなるもありて大小一やう
ならす、数ハ七つはかりもあるへし、是ハ先年湯壺を
堀候節此玉を堀出し候、平七家ハ往古より湯所の
地主にて候ひしにより、此玉をハ平七方に納め小社を
建て納置候、先、平七方へ尋に人をやり候てあの方
閊もなく候ハゝ案内致し申へしと云て人をやり
尋けるに、此節平七忌服の障ありて、玉のあつかひ成
かたしとてやミぬ、扨、夏の内入治の人々多き中に
 
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難病平癒靈驗もありやと尋るに、嘸さやうの輩も
あるべく候へとも、日々数百人入こみ混雑の事に候へは
格別目に立候難病ともに候へは人も存候へとも、いづれを
いづれとも分りがたく候ゆへしれがたしと云へり、當所
にて外に見るべき所やありと問ひしに、珎〔ママ珍〕敷所ハ何も
なく候、先年當村の妙安寺より寶仙〔報専〕坊へ頼ミ、當所
の八景を選ひ候、其題名は、温泉桜花・長潭歸帆・
不明鹿鳴・熊山暮雪・板橋流蛍・蘭若晩鐘・巖嶽
 
(改頁)
 
瀑布・芳川夜月なりと云、夜にいりて樓上より望めは、
谷川に鵜遣ふ篝火三つ四つ見へたり、夜更るにした
かひ雨いよ/\降りて止む事なし、音するものハ水
の音と鹿を逐ふ聲のミにていと淋し
廿五日、和田村を立て昨日来りし堂原川の邊に
至り、川端を傳ひて西の方菅沢(すがさハ)村にかゝり谷川を
左になし未申に向て行、石ヶ原と云所あり、谷川の
両方巖かさなり流清して風景よし、夫より半道
 
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はかり過て纔の渕あり、松右衛門渕と云、夫より名号石
に至る、案内の者いへるハ、今より三十年前異僧ありて
此所に来り、此奥比丘(びく)ヶ瀬に住居し、昼ハ郷に出て
鉢を發き、夜ハ比丘ヶ瀬の上、巖石の中段に纔なる
棚をわたし笘〔ママ苫〕を敷て是に臥し總て火熟の物を
喰ハす、巖上に法を修しけるか、此地に法を弘めんと云
心願を起し發願のしるしに、先、此巖壁に六字の
名号を自ら彫刻しぬ、巖ハ高さ十丈はかり下ハ
 
(改頁)
 
谷川に臨て人間の登るへき便なし、然るに此僧松を
伐りて梯となし繩を下して便となし終に六字を
彫畢ぬ、見る人驚かさるハなし、暫此谷に籠り候ひしが、
所の役人是を聞て、かゝるあやしき僧をさし置ハ後
難はかりかたしとて、終に此所を逐出セりと語る、その
彫たる跡を見るに土人のいふに違ハす、尋常の業
とハ思ハれす、夫よりして此巖を今に名号石と云
傳へり、此名号石より奥ニ入て、巖石の形弥竒絶
 
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にして数々の峯巒天に聳へ、谷に入事深して
仙境に到るか如し、終に比丘の瀬に至る、此所峨々
たる巖壁の下、水鳴て深谷に落、家の如き大石
崩れ重なりて樵路絶たる所は木を渡し葛を
編て道を通す、其下不測の渕藍のことし、異僧の
宿セし巖ハ則此渕の上へ臨し大石峯なり、
実に竒と云へし、夫より谷を出て元の道に歸り、
又谷川を左に見て北に向て行き多田村の湯木(ゆき)
 
(改頁)
 
至る、橋を渡りて温泉に至る、民家二、三十軒も有
へし、湯ハ谷川の上にあり、方九尺と六尺はかりの
湯壺貳つあり、雨覆ハなし、茅の垣を結ひて正面を
ふさく、後ハ石垣高く築て其下に竹筒を二ツ出し
其筒より温泉を取る、手を以て試るに温なる事
水内に増れり〔ママ勝カ〕、清潔なる事鏡のことく内に小魚遊
へり、此湯壺の上の方地高く田畠・人家もあり、その
溝中に湧出る水皆々温にして湯壺の内のものと同し、
 
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早朝にハ此流に煙のことく湯の気立といへり、此湯
にても鳥目を磨きて金色をなす事水内の湯に同、
往古より此地湯の湧故を以て地名も湯木と唱る
といへり、近くハ三、四十年前入治の人あまた群集
して効驗多く、第一眼病を治る事神の如く、又
其ころ瘤を病る人入治セしか、其瘤自然と柔に
なり終に平癒セしと云、嚴冬の節此湯に入るに
温かにして冷なる事を不覺、甚快しと云へり、暫く
 
(改頁)
 
此所に昼休して又元の道に出、前のことく谷川を
左になし北に向て行、半道はかり過て左の方山の
半腹に巖あり、獨立して小松を生す、天狗巖と
云、又半道はかり過て、右の方田の中に舩岩あり、
漸々北に向て行、左に観音堂あり、是より山に登る、
此峠を()股越(またこへ)と云、左右樹木茂りて木曽谷の
如し、佐伯・山縣両郡の境なり、此峠を下りて上筒
賀村とす、半道はかり下りて右に巖高く聳へ、其
 
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間道絶たるに木を架して通路とす、其下谷深く
喬木生茂りて流水の音幽に聞ゆ、其深き事測るへ
からす、樹木の隙より纔に是を臨めは水の色藍の如し、
此所を左りかいの釜と云、左りの方の渕と云事なるへし、
木曽のかけはしに異ならす、此道の左右總て(とち)・ほう
の木なと大木多し、先きに登りし多田村の観音堂
より二里はかりの間人家なし、樹木茂りていと物すこし、
やうやく上筒賀村の郷に至る、庄屋友平所に止宿す、
 
(改頁)
 
寒き事甚し、各綿入を着し火燵に寄而、此邊の
畠を見るに、大根能生立て見事なる事霜月頃の
大根の如し、是ハいかにと問ヘハ、此邊にてハ六月土用に
種子を蒔、九月下旬にハ大方ぬき取候、左様にセざれハ
雪におされていたミやすしと云、雪ハいか程積るそと云
ヘハ、二尺餘り三尺はかり降り候、多少ハ年によりてはかり
かたしといへり、格別の大雪にハあらされとも霜雪早く
降なれは、さもあるへしと思ハる。
 
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廿六日、上筒賀村を出て、東に向ひ行事七、八町
はかりにして右の方谷に入、則三谷の瀧道なり、
是より瀧迄壹里ありと云、少しく谷に入て左
の方に高さ百丈はかりの石壁そばだち、其下ハ
谷川に大木壹本を渡して橋とす、此所をつい
まハりと云、それを過て右の方又大石壁あり、
是を念佛谷と云、下に水流れ落ていと景色あり、
それより谷川の石を傳ひ登る、是より奥を龍頭(りうづ)
 
(改頁)
 
谷と云、行事七、八町はかり、左の方二段の瀧あり、
是を下龍頭(りうづ)と云、其高き事銀河より落るか如し、
上段の瀧ハ少し入込たれとも、高き故下より見
越して氣色甚よし、夫より一町はかり行て
上龍頭なり、是ハ一筋の瀧にして巖壁の形竒絶
にして面白き景色なり、此所則谷の行詰とす、此
瀧の邊總て石楠花多し、春ハ分て見事なりと
いへり、されとも皆瀧の上に生茂りて梺にてハ今は
 
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見る事なし、瀧の水巖にあたり、風に吹れ飛散て、
近く寄れハ雨の降かと思ハる、瀧の脇石壁に岩
がしハ多し、谷を出て元の道に出る、則中筒賀の
郷なり、人家多し、案内の者云やふ、去ル夘の年より
此所にも温泉湧出ると云、則行て見るに、九尺に
二間はかりの板にて囲ひたる家あり、其内に湯舩を
もふけ温泉をたゝへたり、手をさして試るに水内の
温泉よりハ又冷なり、されとも尋常の水にてハなし、
 
(改頁)
 
夏の内ハ人々遠方より尋来りて入治の者五、六十人
はかりもありしと云、其初めハいかなる霊験ありて
温泉とハ云ふらしたりやと尋るに、往古より此所にて
紙をすき候に、冬に至り楮をあらひ候に、寒中の
手業なれは手足ひゞわれいづれ難儀なる事
なり、然るに此所の流にて楮を洗ふ者ハひゞわれ候
事なく、下地よりあかぎれのありし者といへとも、
此流に入れはミな平癒して手足柔になり候故、
 
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扨は温泉なるべしと、何となく遠方の人も来り
追々に群集するやうになり候により、此地主百姓
猪之助、去々年より此通りに覆をセしといへり、
夫より庄屋三蔵所を昼休として又東に向て
行、漸にして殿河内に至る、此邊ハ中に川ありて
東に流れ、道ハ北の方山にそふて行、去年洪水
セし時、山の潰へたる跡所々あり、遠方よりハ何と
なく石白く重なりて帶の如くに見ゆ、近く寄て
 
(改頁)
 
見るに石の流出たる水上ハ見へされとも、谷の口より
大石おひたゝしく流れ出て、民家の建つどひ
たる中を真一文字に押潰したる所もあり、
数千の石一、二丈ばかりも高く重なり、脇へ廣く
あふれたる事三、四十間もあるへし、所によりて
輕重ハありといへとも、殿河内の内にて道より見受
たる所五、六ヶ所、其餘少きなるハ数ふるにいとまなし、
戸河内村の内にてハ猶是よりも甚き所有と云、
 
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東に向て行程に、川幅廣くうち開きたる所に
出、此所渡し舩ありて南に渡る、三、四町行て又
東に渡る、是則加計の郷なり、人家数軒〔十欠カ〕
小き町あり、其並ひ八右衛門宅にて今夜の止宿を
もふけたりと告、やがて内に入、座敷を見るに、爰にも
火燵をもふたり〔け欠カ〕、座定り、暫くして寒さ身に
しミて皆々綿入を重ぬ、扨庭を見るに、折廻りて
十間はかり、向迄ハ纔三間はかりなるに、池を堀、橋を
 
(改頁)
 
掛、松・雜木の類、皆自然を用ひて趣をなす、是を
問へハ、清水七郎右衛門が造るところなりと云、床に鯉・鮒・
小魚を画る大幅を掛たり、印章あれとも夜中
分り難し、是ハ鑒定を乞ん為に掛たりと云、依て
熟視するに、明画と見へて格別の名手にあらす、
又一方の床、寒山の圖あり、落款なし、筆法
古體にして周文に似たり、此餘家藏の画幅見度
よしを乞とも、此外に見すへきものなしと云、
 
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別荘なとハ無之哉と尋るに、是より二、三町上りて
谷合に少の池を堀候、是ハ農業全書の説によりて、
鯉魚を養ん事を心付、且田地用水の為に設たる
事に候、是に纔の腰掛を建、清水七郎右衛門に樹木を
植さセ候といへり、扨は好む處なり、よき序なれは
とて亭主に乞て明朝行ん事を約す、
廿七日、朝、八右衛門を伴ひ別荘に至る、山にそふて
もふけたれは、樹木生茂りて境ハはかるへからす、
 
(改頁)
 
平地の面、二十間に三十間もあるへし、其内に
池を堀、亭を建、座敷ハ南に向て四疊を敷、其
継き東の方に二疊の高座あり、二段の階有て
是に登る、前と左に高欄をもふけ、遠く大〔ママ太〕田川
の流を望む、亭を吉水亭と名つく、地名よし
ミずと云の故に寄ると云、池を玉壺池と名つく、
中に二ツの嶋ありて松を植、其一ツハ板橋を架して
道を通す、右の方山にそふて二疊の亭をもふく、
 
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池の向、小徑曲折して登れハ一間の堂あり、薬師
佛を安置す、是ハ往古よりの堂なりと云、吉水亭
より庭の全景を俯して遠く大〔ママ〕田川の流を
眺ミ、遙に佐伯の諸峯を平視し、煙樹梢を
重ねて景園中に接す、七郎右衛門か意を用る
處知ぬへし、此所を辞して山路を下り町に
出る、町の左右賈人数多并居て、種々の賣物を
つらぬ、案内の者に問ヘハ、今日ハ市日なり、毎月七の日
 
(改頁)
 
ことに市ありと云、夫より板橋を渡りて東に向ひ
山に登る、去年水損の跡ありて、砂石谷川に
満る所あり、此峯を加計峠と云、峯近き所左の
方に千貫石あり、高さ三尺はかり、横五尺はかりも
あるへし、青石にして盆石の如し、下に石を疊て
是を乘す、嶺を下りて長笹村に至る、里に近き
谷口につくはね多し、庄屋藤左衛門所に昼休し、
是より東北に向て下れハ、都志見の山、庄原・鈴張・
 
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阿坂の諸峯を望む、戸谷村に移りて又山路を
登る、左の方に獅子舞岩あり、都志見村庄屋
七郎左衛門所に止宿す、
廿八日、朝、駒か瀧に至る、往還より山に入事十四、五町
にして瀧の下に至る、道嶮ならす、草烏頭・秋めい菊
多し、瀧を仰き見るに高さ凡二十間はかり、折節
水ハ多からされとも幅廣く幾筋も落る也、瀧の
奥に観音の石像あり、入りて拝セんとするに、上より
 
(改頁)
 
水落て入り難し、其時案内の者瀧に向ひ大音
揚て、西へござれと呼、或ハ東へござれと呼ハる、その
好む聲に随て瀧水なびくと云傳ふ、水散なび
く其隙に奥に入りて観音を拝す、其脇にくゞり
巖あり、行人巖あり、峯の左に僊人巖ありて
人の立たる形のことし、又左之方峯に白巖・黒巖
あり、瀧の右に屏風巖あり、又其下に大巖ありて、
巖下に眼洗水あり、此山を總て龍頭山といふ、
 
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案内の者云、此瀧より上に龍が馬場と云所あり、
石に馬蹄の跡ありと、是ハ又十四、五町峯へ登らされ
ハ、見るへからすといふにより、至らすして止ぬ、是より
山を下り南に向ふ、吉木村に至り、小野周軒所に
昼休す、座敷に屏風あり、清朝人の書を集て
是をはる、依て周軒に向て、此書を賞し、又その
家業の傳るゆえんを尋るに、高橋周悦の門人にて、
長崎に至りてハ吉雄孝作に便りて外治の方を
 
(改頁)
 
受け、十四、五年以前此吉木村に住すと云、夫より
南に向て山に登る、嶺を越、坂を下れハ道嶮に
して曲折す、七曲りと云、是を下れは穴村なり、
道ハ谷川の上にありて甚危く、左右山高して平地
すくなし、十四、五町南に下りて、右に障子嶽あり、
又十町はかりにして穴村の郷に至る、往年此所に
権右衛門といへる豪冨の農民あり、源三位頼政の
後胤として遍く人の知る處なり、案内の者に
 
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是を尋るに、其子孫保右衛門と云て、今ハ微にして
尋常の農民なり、昔の形を存るものハ築山はかり
也、と云により立寄て見るに、蹈石のミ残りて座敷ハ
なし、池に二ツの嶋あり、石橋を掛たり、樹木あれて
趣をなさず、夫より百姓理藤太所に止宿す、
廿九日、穴村を出て、谷川を傳ひ、二十町はかり
にして大〔ママ〕田川に出る、此所を澄合(すミあい)の濱と云、森
あり、幽奈(ゆうな)の森と云、是より舩に乘る、舩の左右
 
(改頁)
 
高さ三尺はかりに莚を以て囲へり、いかなる故そと
尋るに、是ハ浪よけ也と云、それより舩の下る事
矢の如し、其急流の間に岩数々そばだちて
岩にあたり、碎る水ハ雪のことく、瀧の如くに鳴り、
舩のあやふき事いふはかりなし、水主壹人ハ舩の
表に立て、かいを以て是をあやとり、其石をさくる
業の早き事鎗剱の術にひとし、實に妙なり
とす、此業をなす者を表乘と唱へて、能修練セ
 
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されは舩忽に碎ける、此表乘を能するもの此
邊にても十二、三人にハ不過といへり、急流ありてハ
又たるミ、たるミありてハ又急流あり、其瀬の甚
危きものハ久留見の瀬・狼瀬・鹿巣(かのす)野風吹(のかづき)
姥か瀬なり、和久(わく)くりなどいへる所ハ壹町ばかりか間
うづまきてくる/\廻る故、名つけたるなり、先に浪
よけに立し莚も、狼瀬なといへる所にてハ中々防
きかたく、浪打入て各着たるものぬれさるハなし、
 
(改頁)
 
左右の山々高く峙ち、或ハ石壁のことく、又ハのぞき
かゝりて崩れんとするか如き所もあり、法師嶽・天
狗嶽、各竒絶の形をなす、地獄と云へる所あり、
巖石高して上に細き道あり、下ハ藍をたゝへ
たるか如し、此所を過て西南の方峯高く聳へ
たるハ(かむり)山なり、其下に温泉ありと云、舩漸下りて
真平(まなびら)と云所に至る、是より岸に登る、民家二、三十
軒もあるへし、此所より山に登る事八町はかり、
 
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山路急にして胸〔原本記載は匈の下に月〕をつくか如し、登る事八町と
いへとも道嶮にして一息にハ登りかたし、二度ほど
休ミて漸(かむり)の権現に至る、小社あり、拝殿ハ九尺に
三間もあるへし、各かやぶきなり、湯ハ谷の間より
湧出る水甚すくなし、ちさき竹の筒を以て此
温泉を湯舩に通す、湯舩ハ一間に五尺はかりの
箱なり、其下に同しくちさき箱を受て、其下流
をたゝへたり、是ハ癩病なとやめるもの此湯に浴す
 
(改頁)
 
と云、夏の内ハ入治の人多く、一日ニ六、七十人程つゝ
ありて、朝より山へ登りて、暮に山を下る、拝殿の脇
にわらふきの仮屋四、五軒あり、湯舩へ手をさして
試るに、冷水にして湯とハ云かたし、夫故に此節に
至りてハ入治のもの一人もなし、扨、此湯にて
効驗もありしやと問しに、小河内村百姓高野
直七と云へるもの悪疾あり、此冠権現の霊夢に
より入治セしかハ忽に平癒したり、去るによりて
 
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遠方へも名高くなり候、ひゼん瘡なとハ速に
治るもの多候といへり、直七霊夢によりて平癒セし
事ハ、自ら其事を記して社頭に掛てあり、所の
役人其事をたゞしミるに、たしかなる事なりと云、
山を下り民家に入、昼休し宇賀に至る、此道は
さきに舩より見し地獄谷なり、庄屋作左衛門所に
宿す、作左衛門ハ此所にての大家なり、庭ハ廣から
されとも、樹木の植やう石の置様、いと見所あり、
 
(改頁)
 
主人に問ヘハ清水七郎右衛門此所通りし時、頼て造らセ
たりと云、
晦日、暁より雨降りて止む事なし、宇賀の濱より
舩に乘て瀬を下る、所々瀬の急なる事きのふの
如し、左右の山煙雨につゝミて、峯巒所々に
隱見して画中のことし、東の方山嶮にして
半腹に樵路帶のことし、其半ハ石壁なめらかにして
道の造るへき便りなきを、石壁を所々鑿て石を
 
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植へ、それを基として石垣を築あけたり、此道を
通へる人ハ却而其竒巧をは見る事あるまし、
舩より仰きて其巧の危事をしる、舩次第に
下りて河戸に至る、此所魚梁(やな)を造りて献上の
鮎を捕らしむ、其構甚大なり、川を斜にたて切り
真中に魚梁を設く、北の方川端に役所を建て
鮎を製す、其仕方甚嚴重なり、川の南にそふて
通舩の口を設て、常に戸を閉、舩至れは水主一人
 
(改頁)
 
役所に至りて告く、而後役人出て通舩の戸を開く、
ミたりに通する事をゆるさす、右にあぶ山あり、
舩次第に下りて左に不動院・日通寺あり、ついに
今門の下に至る。